眠らない島

短歌とあそぶ

カイエ 4号


「カイエ」4号を熟読した。多彩な作品群は詩的なイメージを美しく立ち上げており、魅了された。また、巻末の西巻真の評論も読み応えがあった。
 
特に印象に残った作品から述べてみる。
 
とみいえひろこ
 
あああなた、そんなふうに床を拭いては 金色橋がひたされてゆく
もうほかのことはどうでも良いのだと言いたくなればすすきわらえり
ざわざわ、とあなたは思う ざわざわ 背びれに圧されみずあふれくる
 
 意味を掬い上げようとすると、指のあいだから零れおちてしまう。次々と繰り出される魅力的なフレーズにこめられているのは抽象化された世界への親和感のようなものだろう。
  一首目、床を拭くという行為と「金色橋」がひたされるというイメージがどう繋がるのかは説明できないが、どこかまぶしいような幸福感を感じる。おそらくは存在しないであろう「金色橋」という名詞のせいかもしれない。詩は非在へのあこがれから生まれるということなのかもしれない。
  二首目はその点、文脈はとれる。そして平明でとてもいい歌と思う。結句の「すすきわらえり」に季節や自然への感応があり、歌を落ち着かせている。ほかのことはどうでも良くなるような至福感がここにもある。
 三首目、「ざわざわ」という不穏なオノマトペがここではどこか楽しい予感のように響いている。そしてエロチックな響きでもある。歌の背景が隠されているだけに、恋人のようなふたり、あるいは世界との交感する瞬間が音感によってなまなまとイメージされて不思議な歌。
 
草野浩一
 
人間のたつ影あわくかかえゆく車窓は帯のひかりの中に
安価なるひと束五本のカミソリのいっぽんを抜く旅のおわりに
 
一 首目、場面がくっきりと立ち上がって印象的な歌。電車を外から見たときの電車内に立つ人の姿はさまざまに詠まれてきた。おそらくそこに自分を裏返した姿を投影するからだろう。ここでは「人間のたつ影あわくかかえゆく」と、人の存在の儚さのようなものを感じ取って美しいイメージに結晶させている。走り去る車窓のひかりは、時間そのものでもある。ながれる時間のなかに一瞬存在する人間をかかえてゆく車窓が恩寵のように現れている。
 二首目、こちらはささやかな具体を差し出すことで、生きることの切なさを伝えている。
「旅」は実際の旅行であろうけど、ここはどこか生と死を越えてゆくような旅であってもよい。そうであっても人間は「安価なカミソリ」を携帯してゆくのだろう。
 
笹谷香菜
 
目覚めれば今日は誰かのおしっこを運ぶ日 そっとマスクをはずす
 
 一連を読むと、医療現場の題材が散見しており、そこから戻ってもう一度読んでしまった。
「だれかのおしっこを運ぶ日」という認識にはっとする。それはおそらくそのとおりなのだろう。どちらかというとあんまり人目に曝したくない排泄物である「おしっこ」だからこそ、そこに生きることの淋しさや切なさが透けて見えている。それを運ぶ作者は当然その淋しさを体で感じ取って予見してしまうのか。一首だけでも充分に作者のこころのありようが伝わる震えるような一首であると思う。
 
稲泉真紀
 
柚のなる季節の生家はやわらかくすべてのことばをとかしてみせる
 
 冬の陽ざしに暖められているような歌。前半のスケッチがいきいきとしていてとてもいい。ここでは「ことば」は世界との約束事であったり、自意識であったりするどちらかというと束縛するツールなのだろう。そういう意味の世界を解かしてしまうような「生家」という場所がどこか実際の生家であることをこえて存在するたましいのふるさとのようにも思う。
 
そのほか、印象に残った歌
 
河嶋レイ
 すり減ってゆく靴底を修理して明日を支えるひととなろうか

二方久文
 海まではすぐだろう 駅 寒風に愛撫のごとき観覧車みゆ

文月郁葉
 まち針で波打つ布のいたいいたい月の光を鎖すカーテンに

風野瑞人
 ひとりだけもっとせかいの外縁へ 私はどこまで消えるのだろう