眠らない島

短歌とあそぶ

米田律子 第六歌集 『木のあれば』


  束ぬるに余る野の花著莪を賜ぶ七日八日に咲きつぐほどを   
 

 「未来」のベテラン歌人、米田律子の歌を読んでいると、しずかに流れる時の香りが立ち上がってくるように感じる。些細な日々の出来事を掛け替えのないものとして惜しみつつ懐深くに受け入れる。その澄み切った想念が、磨かれた無駄のない言葉をあたえられて定型に収まるとき、米田の見定めようとするこの世のはかなさとそれゆえの愛惜の思いが狂おしいほどに読むものの胸にせまってくる。理にいかない深く沈潜する認識を錬磨した文体でさしだすとき、そこには人間のかなたにみえる不思議に安らかな世界が現出する。生も死も越えた気息のようなものをこの作者は見極めようとしているかのようだ。
 
 冒頭の歌は、この歌集のなかではどちらかというと平明に歌い下していてとくに気の張るところはない。だからこそ、この簡潔な表現のなかに籠められたわずかに揺れる感情がいきいきと読み手に伝わってくる。上の句「著莪」までのフレーズが流れるように美しく、また適確である。「束ぬるに余る」と表現することで、花束を渡されたときのあかるい高揚感が過不足なく詠まれている。そして下句は、日の経過のなかに余情は流れつつも、いつかは花も終わってしまうはかなさ。それを作者は楽しんでいるようにも見える。
 
  木のあれば露の宿りて土の上のよきことひとつ光りを放つ
 
 歌集の巻頭に置かれたこの歌が作者のコンセプトであるのだろう。作者のこころには木があり、その木の下には露の光りのような「よきこと」があるという。老いてなお、何にもたれ掛からず、凜とした誇りを持とうとする作者の生き方を言挙げしている。一見繊細でありながら、内実は強靱な作者の知力は単に見巡りにだけに閉ざされることはない。
 
  改憲の声起こる日の画学生汝が描く絵の行手を知らず    
  老い人の悲しきのみの世にあらず砂漠のテロに若き父死す  
 
 こうした社会への関心を詠った歌がかなり多いことに驚いた。ここに米田律子という歌人の強い倫理感のようなものを見て間違いはないだろう。そしておそらくそれは作者の少女時代に起因する。
 
  夜を継ぎて空爆の火の迫れるに堪へけり父母を恋ふいとまなく   
 
 おそらくこれは第二次大戦末期に、勤労奉仕していたときの体験を詠んだものかと思う。この戦争体験を確固とした基盤としてこの作者は現代社会の様相を透徹した意識で見通そうとする。その歌の幅の広さがこの歌集を開かれたものにしているようだ。
 
格調高い文語体にこうしたさまざまな題材を意欲的に絡み合わせることができる技量は素晴らしい。しかし、やはりこの端正でクラシックな文体が最も美しく力を発揮していくのは、存在や人の生死にかかわる領域と思う。
 
  乗降の人なきままのバスの客われは座敷に座すごとくせる  
  行き摩りにパン・洋菓子とかかげつつ世を経る人よゆかりかそけく  
  盂蘭盆会過ぎて葉月に境あり此岸彼岸と住み分けにけり    
 
 一首目、バスに一人乗る自分の姿に距離を置いて見ている。それは孤独な心情に流れるのではなく「お座敷に座す」という毅然とした姿として捕らえられているのがどこかユーモラスで楽しい。生きることへの余裕さえ感じる一首だ。二首目は、往来する人々との関係性を「ゆかりかそけく」と一気に本質を突いている。
三首目は、この歌集のおそらくは表の主題である姉の死を詠んでいる。しかし、最愛の姉を亡くしつつ、心理的に描くのではなく、抑制されて普遍性のある表現を獲得してしまうのがこの作者の真骨頂だ。いつかこうした深みにいけないものかとため息が出てしまう。
 
  これの世を終ふるといふは一枚の白紙をだに欲りせざること