眠らない島

短歌とあそぶ

池田はるみ 第六歌集 『正座』


  陽だまりのやうな時間があるといふ丸椅子の上がさうかもしれぬ    
 
ここ一月ほど、池田はるみの『正座』をいつも鞄にいれて出勤していた。少し時間があくとき、気持ちを変えたいとき、鞄から取り出してパラパラとめくる。するとやわらかな感情がこころに流れ込んでくる。あるいは、開きもせずに職場の机の上に置いている。帰宅するときにはまた鞄にもどす。歌集をささえている心の位置にぶれがない。強い力士の重心が低い姿勢を保ったまま取り組む相撲を観ているようだ。それは、決して平明なだけではない。生活や人生そして、もっと大きな時間のながれの前ですくっと立っているようなすがすがしさがある。それは生きてこの世にあることを怖れない強い意志のようにも思える。そういう認識の深さに触れて励まされるような気持ちになっていたのかもしれない。
 
  箸立てに箸が咲いてるゆふまぐれ二本をぬいてうどん食ふひと   
  土に降る雨を見てをり黒々と打たるる土はなつかしきかな    
  ゆきたればバテてばかりのこのジムの前を通るは何かよからず
 
一首目、「箸が咲いてるゆふまぐれ」の把握がなんとも可憐で美しい。うどん屋のテーブルに立ててある割り箸の束を見てそのありふれた光景を初めて見たように心が新鮮に感応している。そして、定型に落とし込むことで、一瞬の光景のなかに「うどんを食べる」というあたたかくもさみしい人のありようまで思いが届く。二首目も雨が土にしみこむ光景があるだけだが、それも言葉になることで「土」が「土」であるまでの長い時間が見えてきて、その前に心は静まっている。「打たるる土」を「なつかしい」と思う心の深さにふれて印象があざやかだ。三首目のような歌はこの作者の得意とするところ。ユーモアがあり、そしてせつなくもある。ある瞬間の心象を気取らない言葉ですくいとって見せてくれる。こころにすとんと落ちてくる。一読してああ、これでいいのだったと力が抜けてしまう。それがこの作者の意図するところでもあるのだろう。
 
  晩春の入舟町のおもて店ふるびしものは立ちつくしたり   
  放射線をともかく測るほかあらず草地をみぞを遊具のしたを  
  巡遊の長き旅よりもどり来し孔子六十九歳さぞ臭からむ  
  遠い遠いロシア革命 大鵬の父をおもへば灯りのごとし      
 
実に多彩な題材が取られ、歌集の幅を広げ風通しのよいものにしている。一首目、一族の歴史が刻まれた「入船町」の地名をよく生かした結句が見事である。二首目、原発はなかなか扱いにくいのに、こうした日常の空間からその脅威を詠んでいる。そこに人のくらしがあることがおのずから伝わってくる。三首目、孔子の歌、四首目、大鵬の連作ともにそれぞれの人物にふかく心を添わせゆく。特に「大鵬とその父」の連作は、偉大な力士大鵬を軸に据えてその家族の歴史をたどることで近代史の裏側に迫っていく迫力を感じた。
 
 一見、雑然としたように散らかっている題材ではあるが、その扱い方の背後にはこの作者のつかみ取ってきた独自の深い認識があり死生観へと導かれてゆく。作者は後書きに
「文学の学の高さより文芸の芸の平を」と自身の作歌姿勢を書き記しているが、その「平」は決して平板ではない。やわらかな口語を織り交ぜながら自在な文体が展開している。さまざまに教えられる歌集である。
 
  さうなのか 時間がゆつくり過ぎたのかふうせんかずらのやうな五分が