眠らない島

短歌とあそぶ

紺野万里 第三歌集 『雪とラトビア*蒼のかなたに』


  月照らす海を見てをりあたたかく脈うつ古き海を抱きて
 
  月に照らされた海を見ながら、作者のこころは地球の生命の誕生したころの海を見ている。自分という存在を四十億年という地球の生命の歴史のなかに還元することで、たったひとりの自分という絶対的な自己認識から解放され、地球に生存を許されている数え切れない生命のなかのほんの一粒という相対的な存在として認識されている。この作者にとって世界とはまず一義的には生命を育んでくれた大自然そのものであり、そしてさらに根源的には母なる水ということになろう。
作者は2010年に、ラトビア作家組合主催の「詩の日々祭」に招かれている。前歌集『星状六花』の表紙を飾ったタペストリーの作者との出会いがきっけだったという。このとき「水の道」というタイトルで朗読された連作の巻頭歌である。この一首には見事に作者の世界観が凝縮されているように思う。また北極圏に近いこの国での交流はこの作者にさらに広い視野をもたらしたようだ。
 
  四つほどの言語とびかふ食堂にしづかなる東洋人としている  
  新鮮な魚のような香りだと薄茶の碗を長く持ちゐる   
 
 一首目、英語を教える作者がさらに異なる言語体験をすることで、あらためてアイデンティティを体験している。また、二首目、「新鮮な魚のような」という比喩が薄茶の色と響き合って美しい。これも、異文化に接することで、相互に文化を尊重し合う貴重な体験である。
 
   あの森はここだったのだアトリエの窓から眺めるタペストリーの樹樹
 
 第一歌集「星状六花」の表紙を飾ったタペストリーは深い雪に包まれた森の風景であった。北の森はおそらく作者自身が探し求めてきた原点の森でもあったのであろう。このとき窓からの風景にふかく癒やされたことだろう。まさに至福の瞬間である。
 
こうした感受をささえているのは言うまでもなく、一人の生涯という時間をはるかに超えた壮大な時間感覚である。こうした時間と空間への認識の方法から、日常性に深く埋没した地点から見える風景とは全くことなったはるかに俯瞰的な景を発見することになる。
 
   呑みこみし川の数多を身の裡にふかく流して九頭竜の川   
   紅ふかき空を映せる川ありてわれの深みをながれゆく秋    
 
 九頭竜川は、作者の故郷福井県一級河川。一首目では、その名の通り、水を支配する神のごとき竜そのものを河の姿として詠まれている。二首目では巨大な川は作者に内在するものとして一体化している。ここにも生命の根源としての水を掛け替えのないものとして受け取ろうとする敬虔な思いが溢れている。こうした世界観が作者の存在の本質にかかわるゆえに、その無垢な世界は必然的に深く傷を負わざるをえない。それは繰り返し詠われてきた。
 
  宇品港岸壁に立つ若き父を倒しぬ 八月六日の風が
  この月に被爆しおなじ月に逝きちちの残せる沈黙の嵩    
 
 それはまずこの作者の肉親である父の被曝という事実と向きあうことから始まった。そしてこの度の東日本大震災による原発事故を詠む歌が胸を打つ。
 
   広島があつたといふのに長崎があつたといふのに戦争でもないのに   
   アタリマシタネといふ声が一瞬にわが全身の皮膚を剝ぎとる  
 
 一首目には、事故を防げなかった無力さが苦しく滲んでいる。また二首目では、これまでの予言が現実のものとなったおののきが被爆者のなまなましい傷として比喩されて鮮烈である。この作者の現実に対しての誠実な姿勢が切実に詠われ胸にせまる。それにしても、妥協を許さない自らへの告発や糾弾はどこか息苦しい。どうしても閉塞感がつきまとってくる。
 
   あんまり無理しなくていいよと清純に咲く水仙に声かけてやる  
 
 こうした歌と出会うとほっとする。作者も同じ気持ちなのだと思う。これからも、この作者は自らのテーマを自分にも他者にも問い続けていくことだろう。そういう営為によって自らも傷つくことは容易に想像される。そんなときはやはり何も思わずに雪を見るだろう。雪がすべてを包んでくれる。
 
     雪のうたがあつてよかつたほんたうに雪は結びて雪は解きぬ