眠らない島

短歌とあそぶ

小川佳世子  第二歌集『ゆきふる』


 なかぞらはいずこですかとぜひ聞いてくださいそこにわたしはいます  
 
 
 小川佳世子は未来短歌会の希有な歌友である。このたび待望の第二歌集が出版された 。

 歌集を読みながら、なんとなく身が軽くなるような気持ちになった。平易な口語がかろやかな感情を誘い出してくれる。作者自身は厳しい現実のなかにありながら、自己の意識に言葉が奉仕するのではなく、言葉がいきいきとイメージをもって自由な世界を描こうとして躍動している。現実世界と不即不離の関係を保ちつつ、ほんのわずかにずらして作り上げる空間に意識が開かれてゆく。冒頭に挙げた歌はそれをよく現しているだろう。「なかぞら」に「わたし」はいるとは言わずに、「いずこですかと聞いてください」と読者を引き込むことで、「なかぞら」という非日常的な空間が読者と作者との共通感覚として虚構されている。それは、まるきりの非現実の世界を示唆するのではなくて、日常性からわずかに浮遊している場所である。そこで、作者の身体は初めて本来の姿を取り戻し、それが言葉となって遊びをはじめる。
 
 ゆきふるという名前持つ男の子わたしの奥のお座敷にいる   
 
 歌集のタイトルにもなっているこの歌も同じように読める。「ゆきふる」はもちろん天象としての「雪降る」からくる言葉であろうが、ここではその意味を漂白されて男の子の名前になっている。こうして、意味の次元を変えてしまうことで、非日常の無垢な空間がかたちづくられる。それは作者の精神世界の聖域として機能しているのではなかろうか。「わたしの奥のお座敷」という場所を担保することで、言葉が不自由な身体から解かれて自在な動きを獲得しているのかもしれない。語り出される位置が現実の位相から少し浮き上がっている。実体から距離をおいた〈私〉が語り出す世界は、日常の風景でありながら、その生な時間から引き離されて言葉が浮力をもって動いている。
 
橋を渡る娘たちはみな髪をまとめくずもちの中のあんこのごとし   
せんせいがすきですとメモを少女よりもらいひとよの夢はかないぬ   
(はな)の音開くかんじのひろびろと冷やし中華の注文つづく   
 
 一首目、「くずもちのなかのあんこ」という比喩が意表をついて楽しい。二首目も少女との心温まる交感が描かれており、そこから「ひとよの夢はかないぬ」と古典的な口調への転換がおおらかなユーモアを生んでいる。くだけた口語と折り目正しい文語を巧みに編み込むことで情感が自然に流れ出している。三首目、「華の音開く感じ」という把握がまず鮮やかであるのに、そこから「冷やし中華」へと展開することなど予想ができない。この落差からいきいきとした時空間が現れている。
 
職場ではやさしくされて友だちもいい人ばかり、また言っている 
終わるゆえ時はたのしい最終日線路のわきにさざんかが咲く   
洗顔の後にしばらくタオルあて泣く真似をしてはじめる朝   
夜のうちに消えないようにカーテンを開けて葉影を確かめて寝る  
 
作者は後書きで、「自分の状況報告のような歌は詠みたくない」と書いている。そうはいうものの、作者の現実は相当に切迫しているようだ。そんな境涯にありながら決して愁嘆を見せたりしない。それはいつでも、視点を切り替えることができる知性のなせる技かとも思う。一首目は意識の重層性を平易な言葉で捉えており印象的だ。二首目の身のこなし方の軽さはどうだろう。三首目、少しずつ自己像をずらしてゆくことで、より本質的な自己が現れているように思う。そして、四首目、重い言葉は削がれているのに「死」への恐怖がありありと感じられる。
 
(ほんとうのことが言えればよかったね。とっくに血まみれだったこととか。)
 
 歌集後半になるにしたがって、しだいに言葉が現実に近づいてゆく。その絶望の深さは圧倒的である。内面世界はこうして吐露されずにはいられないだろう。それにしてもすさまじい葛藤をくぐりぬけてきた言葉がこれほど新鮮であることに驚いてしまう。支えているのは身体性からの自由への願いの強さなのかもしれない。また長い時間を背負ってきた深い悲しみの上澄みなのだろうか。
 
   こんなにも曝されている場所だった投票所前の夏の校庭