眠らない島

短歌とあそぶ

島田幸典  第二歌集  『駅程』

雪暮れの巷にひとつともしびを溢れしめたりATMは    
 
島田幸典の第二歌集『駅程』を読んだ。第一歌集より十年。満を持しての発刊である。秀歌ぞろいで、何処から読んでもまったく瑕疵はない。どの歌を取り上げても十分な評価が得られる歌ばかりなので、あえて言葉にする必要がないくらいだ。
端正な文体のなかに、日常の情景を静かな視線で切り取っている。自意識をうしろに下げて、主客を入れ替えることで物の存在感や空間をあざやかに立ち上げている。巻頭に挙げた歌についていえば、「雪暮れの巷」という柔らかな言葉で詠いはじめながら、最後にATMという無機的な異質なものを提示することで僅かな落差が生じている。違和感といってもいい。その言葉の引力によってATMが明かりをこぼす街角の風景に新たな生命感を吹き込んでいる。
 
バスのエンジンかかるしゅんかん車内灯暗み見知らぬ人々といる 
街路樹の広葉に窓をおしつけてバスは義足のひとを降ろせり 
一分前に発ちたるバスがまだ見えて一分の間を距離にし見しむ  
 
 バスはおそらく作者が通勤に使っている乗り物であろう。一首目、エンジンがかかる瞬間、車内灯が暗くなる。乗り合わせた見知らぬ他者の存在が迫り、むき出しになった自身の存在を切実に意識している。ここでは、ふだん見慣れたバスの中の光景が、初めてみる光景のように体験されている。二首目は、よく引かれる歌。「窓をおしつけて」あたりの把握は精緻であり、展開が鮮やかだ。ここでも「義足の人」とバスが有機体のように心情的に結ばれていて陰翳がある。三首目、「一分間」という眼にみえない時間を遠ざかるバスとの距離としてみることで新しい認識を開いていて新鮮な驚きがある。
 
どの歌をとりあげてもぶれがなく、構図が明晰である。しかし、ありふれた日常的な空間で体験されている事象がこんなに新鮮に立ち上がるのはどうしてだろうか。
ここにあげた四首の歌の中で、二首に「しむ」という使役の助動詞が使用されている。「ともしびを溢れしめたり」「一分間を距離にし見しむ」といった具合だ。このほかにも多くの使役形が歌集中には見られる。本来、意志をもたないモノに使役の助動詞を使うことで、モノがまるで意志を持ったかのように主体として現れる。本来はATMの明かりを見ているのは作者であるし、義足の人がバスをおりてゆくのである。また、遠ざかるバスから距離と時間の相関関係を認識しているのも作者自身である。その通常の座標軸を回転させて、ここでは視点を物の方へ置き換えている。その過程を表現することで、世界が異化され、読者は初めて体験するような新鮮な場面と遭遇するのである。
 
城かつてここにありしに石垣は今に残りて人を立たしむ   
しばらくを措いてふたたび降りはじめ雨はやすやすと人を走らす   
あけぼののひかり射しそむくさぐさの色を世界に返さんとして    
 
ランダムに引いたが、これらの作品にも共通する構造があるだろう。視点の転換によってより城跡や雨やひかりが、実体あるものとして実感される。それは世界の豊かさや美しさをより有効に表現する方法なのかもしれない。近代短歌的な定点としての「私」の視線でみる一元的な世界ではなく、ここには自由自在に移動する視点が世界を多元的に展開して見せている。
しかしさらに言えば、こうした巧みな視点の転換の背景には、それを制御する強い求心力が働いているようにも思える。それはひと言でいえば「理性」ということになろうか。理性の力は自身の認識のプロセスを言葉にして見せることにも現れている。
 
鰺焼いている間に今朝を受けいれるそののち深くなる雨の音   
秋の夜の湯槽( ゆぶね)に聴けば雨音は昂ぶりながら俺に近づく   
 
どちらも雨の歌。その雨音に囲まれながら流れている時間の推移のなかに孤独な人間存在の核のようなものが露出している。それが定型のなかで響くことで迫力のある美しさを放っている。
 
最後に、「旅」の歌を読む。
 
とおく見て入線を待つ朝の駅旅のおわりを惜しみつつあり    
無造作に風のうちあう秋桜日帰りの旅いま終わらせよ    
 
一首目、帰るための列車が入ってくるまでの時間の静けさと安堵が旅を甘美なものにしている。二首目、旅という混沌をつよく拒もうとする断念が下句では突出している。
 
旅とは本来帰ってはこない時間であり、あてどのないものと思いたい。しかし、この作者にとって旅とはそのような曖昧なものではないようだ。この歌集のタイトルがまさにそうした世界観を表象している。駅程とは交通の制度である宿駅と宿駅との距離をあらわす。距離には実体がない。駅と駅があらわれてはじめて距離は成立する。思えばわれわれの生も実体などはなく、宿駅と宿駅とをわたる時間の旅にすぎないのかもしれない。制度が見えなくなったとき、全てが消えそうでこわい。不安はありながら、この作者の視線は湿ってはいない。どこまでも透徹した意識が見せてくれる世界は案外やさしい表情をしている。
 
平日の昼間の家に帰りきて誰もおらねば旅するごとし