眠らない島

短歌とあそぶ

『京大短歌21号』 時間の様相

 
 京大短歌21号は充実した内容だった。企画の吉川宏志特集は六冊の歌集を考察し、その軌跡を丁寧にたどっている。また、歌集にはない初期歌篇を収録しており、貴重な資料となっている。
さらに、吉岡太朗の批評会記録が掲載されていた。所用があり、参加できなかったのでありがたく読ませていただいた。
 そして巻末の阿波野巧也の『口語にとって韻律とは何か』は、現代の口語短歌から韻律の特質を探っている。阿波野は「音便化と句割れ、句跨がり、字余り、字足らず」が口語の韻律に深く関与していることに言及している。

 こうした盛りだくさんの内容なので読み直していたころに、角川短歌九月号の時評を読み、もう少し考えてみたくなった。時評では大辻隆弘さんが「口語の時間的表現について」ということで丁寧な考察を展開されている。これは大いに関心のあるところで、興味深く読んだ。
 
 
  最近、口語と文語についての論議が活発である。そこでよく耳にするのが、文語は時をあらわす表現(ほとんどは助動詞をさす)が豊富だが、口語は貧弱だという意見である。たしかに伝統的な文法体系からみれば文語には過去、完了の時制をあらわす助動詞が「ぬ」「つ」「り」「たり」「き」「けり」の六種類あるのに対して、口語では「た」のみということになる。こういう認識はごく今では常識であって、筆者も疑いもしなかった。しかし、そう説明しながらずっと違和感のようなものはあった。現代語にはそういう区別ではかたづけられないもっと複雑なニュアンスをもった時の把握の仕方がある気がする。
 
 京大短歌21号に掲載されている作品のほとんどは口語表現が主体である。そこには口語でしかつかみとれないレアな人間関係や自意識の世界が展開されていて、読むのが楽しい。
今回はそんななかでも特に、時間の様相にかかわる表現に注目してみたい。
 
手応えを期待していたコンセント挿し入れたあとぐらついている
                             田島千捺
 この歌を読んだだとき、奇妙な感じを受けた。上句ではコンセントを挿し込む前に手応えを予想する意識が起こる。そしてその意識はある時点まで持続している。下句では挿し込まれたコンセントがぐらつくという事態がおこりそれが持続した状態であることが叙述される。ここには一瞬の時間の局面をわざと拡大してみせている像がある。それはスローモーションを見ているようでもある。主体が体験している「現在」の様相を時間軸からずらしてとりだした現れ方がある。そしてこの主体は起きている事態の外側からその成り行きをぼんやりと観察しているようにもみえるし、その視線の質感はどこかなまなましくもある。
 
 ここに描かれているのは日常に起こる些細な体験にまつわる時間のある局面である。場面だけを切り取ることで時間の肌理のようなものがあぶり出されている。この感じはどこからくるのかというと「期待していた」と「ぐらついている」という陳述のしかたであろうか。この「~している」という表現は伝統的な文法区分にあてはめると、「サ行変格活用動詞+接続助詞+補助動詞」ということになる。しかし、そういう文法的な説明をしてもこの表現があらわすニュアンスを正確には捉えることはできない。また現在進行形として片付けることも違う気がする。結句の「ぐらついている」には主体の意識そのものがぐらついているような不穏さが絡まっている。
この「~ている」という表現形式は文法上「アスペクト」と呼ばれている。「~てゆく」「~てくる」「~てしまう」なども同じである。

近年、このような口語表現においてのアスペクトの研究が進んでいる。
アスペクトとは何か、さまざな定義があるが『現代日本語動詞のアスペクトの研究』(吉川武時 1976)によると
「動作・作用の過程の時間的性質による言い表し方の区別」
と定義されている。あるいは『現代日本語文法3 アスペクトの概観』(現代日本語文法3 2007) によれば
「動きの時間的局面の取り上げかたに関する文法上のカテゴリー」
ということになる。
アスペクトにはさまざまな形式が挙げられているが、ここでは作品に即してみていこうと思う。
 
  もう来ないのだろうねお土産を抱えてレジまで持ってゆく人
                         川﨑瑞季
    サイレンはどこかで鳴っているだろう 髪を乾かし終わればねむる   
牛尾今日子
一首目、「お土産を抱えてもってゆく人」はもうこの店には「こないのだろう」と主体は推測する。その人とこの主体とはそれほど深い関わりがあるようには思えない。にもかかわらずこの歌には切ないようなある種の惜別の感じが流れている。その抒情を引き出しているのは「持ってゆく人」というフレーズであろう。この事態の局面では「持つ」という動作が継続している状態があり、その時間の場面と並行している意識状態が表現される。それは「~ゆく」というアスペクト形式が含む、自分から遠ざかってゆく対象への未練のような思いである。このように、ある状態を観察する主体側の意識が反映されるのがアスペクトでもある。
 二首目は奥行きのある時間が形成されている。「サイレンが鳴る」」ことから何かが起こる兆しが示されるが「鳴っている」とアスペクトの形式をとることで、主体の意識のなかで継続している状態として読める。そういう意識状態がつづくなかで、一方、時間軸の上には「髪を乾かし終われば眠る」と習慣的な動作が叙述される。ここには意識の世界と行動する自己との乖離がある。しかし、主体はむしろそういう非連続な状態を楽しんでいるように印象づけられる。
このように口語の大きな特色であるアスペクト形式は短歌定型のなかに作品主体の現在の様相をいきいきと切り取る効果が見られる。京大短歌21号に掲載されている作品群はどれもそういう点からも魅力的だが、その性質を生かして美しい口語を定型にのせた作品を紹介する。
 
   抱きしめているのに風も消えていくぼくもあなたも秋のすすきも
阿波野巧也
 
この作品は二つのアスペクト形式を無理なく取り込むことから詩情に転換していくことに成功している。「抱きしめている」という動作を主体は継続しているにもかかわらず、その一瞬、一瞬の生きている現在は「風」のように「消えていく」。この表現からもわかるように、消えるという動きは永続的に繰り返される。そのように現在にしかあらわれない「ぼく」も「あなたも」「秋のすすき」も無限に喪失し続けているのである。この事態は、過去に属することではないし、未来ともいえない。まさに主体が体験している現在そのものの悲しみが、優れて洗練された言葉で表現に定着されている。
 
私たちの周りでは常に何かが起き、そして過ぎ去ってゆく。存在することが出来るのは、ほんの一瞬の現在である。その現在も次々と過去へと消え去って行く。口語に特徴的なアスペクトという形式はその現在の局面を書きとめる有効な形式とはいえないだろうか。そう考えると、口語は時間の表現に弱いという考えは少し改めなければならない気がする。文語では把握しきれなかった、時間のある局面をいきいきと捉え、今まさに生きている生の実感を定着する豊かな表現への可能性がひらかれている。アスペクト形式を定型のなかで生かしていくことで口語の時間表現はさらに豊かになるだとう。

 まだ触れているというならとどまらず叶えず小さな風鈴であれ
                        小林朗人