眠らない島

短歌とあそぶ

中津昌子  第五歌集『むかれなかった林檎のために』


萩だろうようやく暮れ来し水に乗りすこし明るみながらゆくのは
 
中津昌子 第五歌集『むかれなかった林檎のために』を読んだ。この歌集からふたたび仮名遣いを現代仮名遣いにもどしたという。そのためか、歌集全体に言葉の清潔感が流れているように思える。
 
水面に浮かぶ小さな花殻をぼんやりと見ている視線。その背景にある意識はゆるやかに夕明かりのなかに解き放たれていく。さながら一片の萩の花びらになったように水の流れに任せている。意識は外界に溶け出して、境界を消し、のびやかな時空間が構成されている。ここには、現実の身体性の束縛を離れた意識が、夕明かりする水面にたゆたっている。自在な意識に裏付けされた、みずみずしい感受性が中津昌子の詩想の根源にあるようだ。
 
濡れたままひかりににじむ白木槿 きのうの声はきょうのごとしよ  
ここしかない、そういう風でなくていい 春の柳が風にふくらむ  
一生をかくも長しと思う日の空にきらめく鱗の雲よ   
 
一首目、ひかりのなかに形を失いそうな白木槿。それが「きのうの声」が「きょう」の「私」ではないかという混沌とした意識を呼び出している。また、二首目は、私は「ここ」にもいるし「ここ」でないどこかにもいる。あえて自己規定せず、浮遊する自意識が春風のように心地良い。そこから三首目のような、充足感に満ちた美しい世界がひらかれてゆく。おのずから心を解き放って「一生はかくまで長し」と言挙げすることで世界の無限性を呼び出している。
 
影かもしれぬわたしよりのびこの影は日傘ゆたかにひろげて歩く
 
「わたし」は「影」であり、身体を消した影そのものとして自在にゆたかな世界のなかへ入ってゆける。影は解き放たれた意識そのものだろう。日傘をひろげて歩き出す影。影ゆえに「わたし」は世界のどこにでも偏在する。
 
ところで、この幸福な全体性が歌集の中盤から危機にさらされる。それは「病い」との遭遇である。
 
階段はいきなり終わりむらさきに暮れ落ちようとする空に出る   
  放射線当てたるところは汗の出ずきらりとつめたき右のちちふさ   
 
「病い」とは、われわれが身体的存在であることを突きつけられる体験である。自在であった意識は否応なく身体に縛られる。一首目はその体験の意味を適確に詠んでいる。あたりまえのように続くと思われていた「階段はいきなり終わる」。意識によってはコントロールできない身体によって体験されるのは未来性の喪失であろう。人は生の可能性を未来にイメージすることで始めて自由な存在であることを感受できる。しかし「病い」は、われわれに身体の有限性への認識を刻みつけようとする。それは二首目の歌のように感受される。ここには全体性を奪われた「こころ」と「からだ」との乖離した意識があてどなく浮遊しているように思われる。
 
赤い靴が傘をはみ出し前へ出る濡れながら出るわたしの靴が   
 
この歌は、場面の上では先ほど引いた影の歌と類似している。しかし、二つの歌の相違は明らかだ。前の歌では、自在な意識のありようが明るい日射しを背景に詠まれており、この歌では苦しみでしかない身体が雨に濡れる「赤い靴」に表象されている。
 
ところで、ここで注目しておきたいのはこういう自意識の危機にあっても、主体の意識の方向が内に向かって閉塞していかないことである。本意ではなくても赤い靴は濡れながら雨という外界と触れている。それを意識はただ見ているだけだ。いわば意識は宙づりにされている。それは、痛ましくもあるが、自己の身体を突き放して客観化する姿勢がかえって主体を危機から救済しているようにも思われる。
 
夕映えのつよすぎる部屋 肉体と私のあいだがゆるゆるとする   
 
感情をできるだけ押さえた表現で冷静にこころと体の乖離が詠まれている。このような場面でさえ作者は自意識を全面にだそうとはしない。「病い」という状態をただ傍観しているだけだ。この作者には本来、強固な自我同一性への志向がなかったゆえに、「病い」という臨床にあっても精神世界は「病い」がもたらす圧倒的な苦悩によって歪むことはあっても破綻することから回避されている。
 
生きていく上で、われわれのこころは無限性を希求しながらも、身体の有限性を抱え込まざるをえない。それは、「病い」ばかりでなく、この歌集では繰り返し詠まれる「母」の「老い」を契機にしても生きることの実相が深く内面化されてゆく。
 
母が寝言にあやしているのは私かあじさいばかりがあかるく咲いて  
 
「母」の意識は過去へ過去へと戻ってゆく。母の時間に寄り沿うことはいつのまにか自分の未来に過去を投影させることにもなるのだろう。ここでは無傷だった未来は失われるが、世界の見え方がやわらかに変容していく。
 
生も死もひとつのものにはちがいなく草原なのかひかっているのは 
 
いつかはくる「死」という身体の滅び。それを引き受けることで主体の中にゆるやかな全体性が回復している。草原にはひかりが射している。滅びゆくものはいつでも明るい。
 
そこへいけばかならず会えるという冬のそこは小さな庭なのだけど  
 
 美しい歌だ。「冬の小さな庭」はどこかにあるはずだけど、そこにはたどり着けない場所。この歌に流れている喪失感は明らかだが、しかし不思議に一筋の光が差し込んでいるようにあたたかな情感に包まれている。あるいは希望といっていいかもしれない。寂しさのなかにあるからこそ恩寵のような「小さな庭」が与えられるのだろう。
 
歌集後半はあらたな世界への模索に満ちている。主体の意識も溌剌と躍動をはじめる。夏の到来をこんなにも美しい響きで詠えるこの作者のあふれてやまない詩想に爽快感さえ感じてしまうのは私だけではないだろう。
 
蝶番はるかに鳴らし降(お)りてくる夏か緑の穂がゆれている