眠らない島

短歌とあそぶ

土岐友浩 第一歌集 『Bootleg』

クーラーを消してお米を磨いでいる今日という一日のほとりに  
 
 
 土岐友浩の歌にずっと惹かれてきた。今回、待望の第一歌集が出て、至福感に満ちた言葉の世界にゆったりと浸ることができた。これから何度も手にする歌集となるだろう。まだ、読み切れてはいないが、その魅力についてぼんやり考えたことをまとめてみたい。
 
土岐はやわらかな口語文体を使って、だれも言葉にしなかったような新鮮で繊細な心の動きをすくい取る。掲出した歌も、ただ米を磨いでいるというだけなのだが、「クーラーを消して」とこれまた余白のようなフレーズから始まることで、どこか敬虔な儀式のような雰囲気を醸し出してしまう。その情感を意味づけすることなく、その気分のまま下句を流すことで抒情がやわらかに広がる。生活のなかのささやかな営みがこれほど神聖に描き出されることについ感動してしまう。些事にこそ、しずかな聖性が感受される。そして、定型にすると壊れてしまいそうな抒情に、最も簡潔で適切な言葉を選び取ってくるこの作者の感覚に限りない羨望を感じる。
 
それにしても、この歌には生活への充足感とともにどこかその行為そのものへのさみしさのようなものも感じとれる。「お米を磨ぐ」ことから始まって、人が食べることで生をつないでゆくある種の根源的な寂寥感である。土岐の歌にはいつもこの寂しさがまとわり付いているようでもある。充足感と寂寥感というふたつの情感がシンプルな言葉のなかで響き合って口語でありながら、読後感を深いものにしているようだ。
 
では、その寂寥感とはどこから生まれてくるのか。歌集になることであきらかになった土岐の世界を遡ってみた。
 
マッチ売りの少女にもしも手袋と母があればと思う街角  
僕の手を離れて水になっている母を亡くした春の記憶は    
あざやかな記憶のしかし桜草死を看取ったらあとは泣かない    
 
 一首目、アンデルセンが書いた「マッチ売りの少女」の話は悲しい。その少女に「手袋と母」があればと思うという。その冷えた手を温めてくれる手袋と、抱きしめてくれる母。その欠如は少女にとっては決定的である。そしてその欠如は作者自身のものではないのか。二首目は、亡くした母を詠んでいる。しかし、悲しみを詠むという境涯詠的な詠み方ではない。「母を亡くした春の記憶」が離れて水になっているという。悲しみがすでに浄化されているわけだが、だからこそ、そこにいたるまでの長い時間が感じられ、作者の心の中の空白がありありと見えてくる。三首目はさらに痛ましい。「死を看取ったらあとは泣かない」と心に決めたあとの悲しみがそのまま読者に手渡されてくる感じがする。亡くした母についての記憶、そしてその記憶がもたらす空白感が土岐の世界に深さや奥行きをもたらしているように思う。
 
自転車はさみしい場所に停められるたとえばテトラポッドの陰に
夜になるたびに姿をかき消してしまうビジネスホテルも山も   
いつまでも暑い九月の坂道を降りたところに立っている蔵     
 
ここに挙げた三首は、土岐が得意とする風景描写である。一首目、自転車が停められている場面の切り取り方が単純ではない。テトラポットの陰にある自転車にさみしさを見ている。二首目、ビジネスホテル、と山を並置することでまるで異質なものがこの世界を構成していることに改めて気づかされる。そして、夜はすべてをひとまず消してしまう。そのことが救いでもあり、また世界そのもののはかなさをも想起させている。三首目は、時間の流れと空間が鮮やかに立ち上がってくる。最後にあらわれるのは「蔵」。蔵がもたらす重量感へのかすかな違和感が歌全体のたどたどとしたリズムに浮き出している。そして、もういちどこの歌を読むとどこか不吉なものも感じる。まるでゴッホの絵を観ているような印象だ。
 
さりげない、平坦な言葉のなかにこれだけの重みを乗せていることにあらためて驚嘆する。そしてそうさせているのは、土岐のなかの半端ではない空洞のように思う。その重力によって発見された風景はまだ既製の言葉では意味づけられてはいない。それを土岐は、独自の口語の使いかたで、生のまま差し出してくる。そこに表現しきれない魅力を感じてしまうのだ。
 
いまはもうそんなに欲しいものはない冬のきれいな木にふれてみる   
 
 この歌集に収められている多くの歌からは、この歌のような静かな幸福感を受け取ることができる。さりげない、透明感のある言葉で紡ぎだされる歌はとても美しい。もしかすると、清潔で穏やかな言葉の響きだけを感じ取ればいいのかもしれない。そこには、人と共に生きることへの静かな祈りがある。
 
生活というのはわからないけれどあなたと水を分かち合うこと