眠らない島

短歌とあそぶ

真中朋久  第五歌集『火光』

 
  地下のつとめ地上のつとめこのさきも引き裂かれつつ生きてゆくべし  
 
 真中朋久の第五歌集「火光」を読んだ。読めば読むほどに、思考の森深くに誘い込まれ、その深い精神世界に圧倒された。あげるべき秀歌はいくらでもある。しかし、ここではかなりかたよったところで感想を書いてみたい。
 
この作者はつねに何かに引き裂かれている。そういえば、第一歌集も「雨裂」だった。
内面にある深い裂け目から発語され、それはどこか口ごもるような響きをまとっている。冒頭に引用した歌は単に仕事上の歌かもしれない。しかし、何度も読んでいるとそう単純ではないと思える。地下と地上とはそのまま、作者の目に映る世界の表裏でもあるのだろう。物事に対して一歩引いて、その本質を見ようとすればそこにはいつでも光と影が見えてくる。世界は不穏に揺れ動いており、私たちを脅えさせ、混乱させる。そういう混沌をあえて歌にしてゆくこと、そこにこの作者の深い思惟の力がある。この歌集を何度も読んだ。特に2012年以降の作品では、原発問題に関わる歌が散見する。
 
甘やかされ手のつけられぬやうになりしもその街の出なれば兄弟  
弟の殺さるるまでを見届けむ死んでも疎まるるべき弟の    
 
 この作品は新聞に掲載されたようだ。原発事故に絡む歌として詠まれている。事故を起こした原発「弟」とする。一首目の歌から作者が日立市の出身かと勝手に詮索したが、そうだとするとこの「兄弟」という比喩はなかなかに痛ましい。作者自身も、その出自を同じくするという認識が、深い葛藤を呼び起こしている。
 
   みずのちからかぜのちからを制し得るやおのれの欲を制し得るや    
 
 原発事故から私達はそれぞれに深く自分自身を問い詰められることになった。豊かで便利な暮らしを欲しなら、安全も欲しがる。自然の力の前で、どれほど無力だったかを思い知らされながら猶も欲望には歯止めが掛からない。この歌から、作者が問い詰めようとしている問題の深さを思い、突きつけられる痛みを感じざるを得なかった。
 
 こういった歌に現れる粘り強い思考はいったいどこからきたのか、その問いかけが頭から離れない。不思議な重力に引かれて何度も歌集を読み返した。
 
 夜の風は裏の林に戦ぎつつ団結小屋あかあかと灯りゐたりき  
 
目にとまったこの歌に思わずのめり込むような衝撃を感じた。「団結小屋」とはかの三里塚闘争の象徴的存在である。この光景は、まさにその闘争の渦中に、あるいはその周辺にたむろしていたものしか目にしたことは無いはずである。私は暗い感情とともにこの光景をありありと思い出した。
 
武装解くこと屈従と思はねどあるいは易しと思はれてをらむ    
じたばたと屈せず機をうかがひつつ屈せずはじめから骨なくて屈し得ず  
 
 戦後における最後の武装闘争とされた三里塚闘争は敗北のうちに幕をとじた。無論、この作者の歌のすべてが事実であるとは思わない。また、そんな必要もない。そうしたうえでも、この二首の重さはどうだろう。一首目には、武装を解いて撤退することの悔しさがリアルに詠まれている。そして、二首目、「骨なくて屈し得ず」とは、闘いの渦中にあっても、その意義を内部から疑い、逡巡し、葛藤し、疎外感を抱かずにはおれない精神のなせるわざである。闘争が追い詰められてゆくなかで、組織のなかにいることの違和感、革命ということへの不信感が渦巻く。闘争に敗北する過程で、精神は深く切り裂かれてゆく。ひとつの思想の旗を掲げることがすでに権力への志向であり、自由と矛盾することではないのか。そう思ったとき「骨」を失わざるをえない。
 
  ほんたうのことを言つてもよいのかと脅かすやうに言へりほんたうとはなにか
 
この言葉がいつも幻聴のように流れている。「ほんたうのこと」を言うものは同時に他者を排除する。思想とは、言葉とはそういうものだ。「真実」ということに作者は過敏に反応する。「真実」といった瞬間に言葉は硬直し教条主義となる。
はたしてこの作者のなかには、人間が自由であるこことへの無限の憧れが秘められているように思える。しかし、それは叶わぬことであると深く認識されている。自由でありたいと願うことと存在することの痛み、それがこの作者の内面にある「裂け目」ではないのだろうか。
 
  わだかまる雲ぬきとおす午後の光束なして沖をあかるませをり   
  背のひくき積乱雲が北の尾根をあふれつつありと見えしときのま   
 
 もし、自由があるとすれば、こういう静謐な一瞬の光景だろう。その美しさを捉え、感動するこころの高揚感。さらにこのような美しい言葉にすることでわずかに成就されるのかもしれない。