眠らない島

短歌とあそぶ

やすたけまり『ミドリツキノワ』書評

やすたけまり第一歌集「ミドリツキノワ」書評
 
Ⅰ「ミドリツキノワ」の韻律
 
 
口語で歌をつくるとどうしても散文的になり、文末が単調で歌が平板になるという点はよく指摘されている。二〇〇〇年以降はいわゆる「棒立ちの歌」がひろまり、若者達の内向的で、ひりひりした歌が一世を風靡している。
やすたけまりの「ミドリツキノワ」は完全な口語体である。しかし、歌集全体をとおして平板という印象はまったくない。どちらかというと非常に起伏に富んでいる感じがある。そのため、歌集を読み進めるのが苦にならない。独特の弾むようなリズムに乗せられて、思わず知らず「ミドリツキノワ」の世界で遊んでいる? 或いは遊ばれている自分に気付く。
歌集冒頭の歌からみてみよう。
 
本棚のなかで植物図鑑だけ/(ラフレシア・雨)/ちがう匂いだ
木蓮うたい出せ/その手をうえにむすんだら/春ひらいたら風
爪よりもちいさくなったチョークたち/ヒマラヤスギにあつまりなさい
 
これらの歌に共通していることは明確な句切れがあるということだ。句切れをジャンプ台にしながら歌の世界が広がってゆく。
一首目、上の句には本棚にある一冊の植物図鑑だけである。ここに句切れをおくことで、下の句では、世界最大の寄生植物があらわれ、そしてその「におい」を感受し、南の島のジャングルのなかにいきなり飛び込んでしまう。ここでは、異次元の世界へ誘い込む仕掛けとして(ラフレシア・雨)というパーレーンがよく機能している。おなじことが、二首目以降の作品にも見られる。山木蓮の歌は、まさにリズムそのものである。句から句へ軽快に跨りながら、弾むようなリズムで山木蓮がひらき、春の空気が風になってひろがってゆく。かろやかな自然賛歌にのせられて、読者は「ミドリツキノワ」の世界に取り込まれてしまう。三首目、「爪よりもちいさくなったチョーク」が三句切れから高く舞いあがり、ヒマラヤスギの細かい葉に変わっている。「ヒマラヤスギ」の歴史性をもつ時間にとりこまれることで、現実の時間の中で使い捨てられてゆく「ちいさくなったチョーク」が改めて命を与えられ一瞬の間、輝く。宇宙的な時間の流れと、人間の生きている短い時間との交差。この場面を演出するのに一役買っているのが句切れである。「ミドリツキノワ」の歌群には、多様ななリズムを作り出す仕掛けがなされている。
 
おひるだよ 呼ばれて立ち上がったからバケツの国は消えてしまった
ニワトリとわたしのあいだにある網はかかなくていい? まようパレット
たまご・たべる・わたし・こわい・アリスです 樹海の底につまさきがある
 
一首目、初句に外部(おそらくは母親)からの声を入れて一拍おいている。それは後半に登場する「バケツの国」への予兆を孕む休符である。バケツの中にはメダカでもいるのだろうか。大人の介入によって、断ちきられてしまう空想の世界。「呼ばれて立ち上がったから」と動作をいれることで、こどもの時間の流れを無理なく感じさせる。二首目は、既に多くの評者によって引用されている。四句目で切り離すことで、こどもの戸惑いや息づかいが生まれる。ここでも大胆な句切れが、口語短歌が陥りがちな平板なモノローグになることを避けている。最後の歌のリズムの取り方は、内的な心情そのものである。「たまご」という生命そのものを食べている「自分自身へのおののき」がぶつぶつ切れる表記によって見事に体現されている。作者の知の深さが、リズムを幼稚なおしゃべりにせず、句切れを梃子にして歌の内部にしっかりした骨格としての韻律を作り、歌の世界を外に押しひらいていると思える。また歌集に心地よい躍動感を与えている。それは次の章で述べることにも関わってくる。
 
Ⅱ 偏在する視点と私性
 
「ミドリツキノワ」の大きな特色として「個人情報」が少ないことから日常の作者の顔が見えてこないということがある。そういう点から「私性」の欠如のように指摘される向きもある。しかし、言うまでもないが、「私」とは、一元的な時間のなかで規定されるようなものではない。さまざまな時間を漂いながら存在している意識の流れのなかに、辛うじて「私」の、はかなくそして掛け替えのない欠片を拾い上げることができるのではないだろうか。さまざまな色、形をした断片をパズルのように再構成するなかで、「私」は、かろうじて発見できる。独特の個性を持った作者であればなおさら属性は、さまざまに変幻することが可能であろう。そういう意味では、「ミドリツキノワ」の世界からはっきりと作者の顔が立ち上がってくる。
 
真夜中にはたらいているホチキスのつめたいせなかちいさなくしゃみ
そらのみなとみずのみなとかぜのみなとゆめのみなとに種はこぼれる
  干潟再生実験中の水底に貝のかたちでねむるものたち
  
一首目、ごく身近にある道具であるが、そのために誰もその存在について思いを馳せたりはしない「ホチキス」。そういう日常の時間や空間からほんのわずかずらしたとき、「ホチキス」がちいさなくしゃみをする。「モノ」として立ち現れる瞬間である。世界の秩序が一瞬かわった。二首目、外国から日本に渡ってくる植物の種。そのひとつひとつに小さいけど、わくわくするような物語があったはずだ。それへの思いが弾むような畳みかけるリズムで詠われている。作者の視線は種と一緒に大きな海を越えようとしている。三首目、息を潜めて、新しい命が育まれている静かな水の底。そこは、「干潟再生実験」という人間と自然との共同の空間である。小さな生命の誕生への試み。ここには、自然を再生し、共存していこうとするしずかなそして尊い願いがある。
 
とどまれはしない世界に出るために一瞬呼吸をとめるトビウオ
  葉音・羽音・そのどちらでもない音もかさなっている林の地層
  あした生む卵を持ったままで飛ぶ ツバメは川面すれすれに飛ぶ
  うわのそら、ってどこですか手をつなぐ右のカエデと左のケヤキ
 
枚挙にいとまはない。作者の視点は水中から、地層、卵を孕んだツバメ.。カエデやケヤキそして、そのうえに広がる空へと自由自在に動き回る。作者の視点は世界中に遍在している。それは、一見秩序の混乱のようにも見えるが、この自由さを裏付けているのは、したたかで、しなやかな作者の感性である。そして野放図のようにも感じるが、どの歌にもしっかりしたリアリティが光っている。そのリアリティがさりげなく、動き回る動的な視点をささえている。一首目「一瞬呼吸をとめる」という把握、二首目の「音もかさなっている」という繊細な想像力、三首目の「卵をもったまま」といった写実が細やかに配慮されて歌の中に組み込まれている。やわらかなものいいであるが、正確で周到な表現力が歌集の構造を成立させているといえないだろうか。
 そして偏在する視点を獲得することで、歌は内向せずにひらかれてゆく。様々なものに語らせながら、世界を新しい秩序で組み替える。それは自分自身をあらためて世界の一員として認識しなおす作業でもある。この作者は世界を常に更新して掴もうとしている。そして「もの」を発見するなかで、世界にあることの「孤独」ということも同時に認識として提示されている。その後ろにはくっきりと作者の顔がみえてくる。
 
 Ⅲ 「欠けている世界」への共感
 
 こうして見てくると、やすたけまりの世界は一見宇宙的な視点から俯瞰しているようにも思える。しかし、丹念に歌集を読むと意外に作者の視点は低いところにある。
 
お店ではない場所が商店街にうまれて/そこにだけ陽があたる
 
集中、最もひきつけられた歌だ。普段なにげなく通り過ぎている商店街の光景。そこがある日更地になっている。それを「お店ではない場所」と捉えることで、喪失感が浮き立つ。作者は「うまれて/そこに」と一息おくことを忘れない。そしてシンプルに「陽があたる」とだけ記している。主観を排することで一層の寂寥感が、そして本来のすがたに戻ったような安堵感とが流れ出す。この世界は、いつでもどこか欠けている。それが私たちに不安をもたらすのだが、その不安を抱えていることが「生きる」ということでもあるのだろう。
 
たいせつなこと書く欄がありません遺失届をうらがえしても
 
 傘やら、ペンやら、何かしらを無くしてしまう。無くした後にその「モノ」と自分との「関係性」があらためて想起される。しかしそれは既に記述されるものではない。「モノ」とは私自身でもあるからだ。「ミドリツキノワ」を読んでいると、世界はいつもどこか欠けているという怖れがあるように思う。あるときは喪われた幼年時代への回想としても現れる。しかし、それは過去へ回帰するのではなく、現実の世界の「痛み」として感受されている。
 
光らない一本の竹ひんやりとだきしめている きみのちかくで
 
私たちは、もう昔話の中で生きていくわけにはいかない。「光らない竹」しか所有していない。光を失った竹であっても、世界との関係をだきしめながら共感しながら生きていきたい。これは静かな祈りでなないだろうか。最後に
作者のエネルギッシュな生き方の宣言であり、とても素敵な一首を。
 
せかいじゅうひとふでがきの風めぐるどこからはじめたっていいんだ