眠らない島

短歌とあそぶ

『水のゆくへ』批評会報告記

黒田瞳第一歌集
『水のゆくへ』批評会報告記
 
 
平成二三年九月十日(土)、大阪府教育会館たかつガーデンに於いて、批評会が行われた。パネラーは、魚村晋太郎、江戸雪、水沢遙子、大辻隆弘の四名である。
『水のゆくへ』は、黒田瞳の十年間の歩みを詠んだ奥行きの深い歌集である。編年体の構成によって編集されているので、文語体の習熟への歩みが読み取れる。作者独特の美意識や、文体とモチーフについて丁寧な分析がなされた。まず、パネラーの発言をかいつまんで紹介する。
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冒頭、魚村から叙情の質についての考察があった。
 
まはだかのそびらさらすと思ふまで風のはゆまのしらしらと冷ゆ
のずゑには不可思議の汽車うつつなく美しき鋼にかへらむとして
 
一首目、風そのものが真裸の背中をさらしているような身体感覚がある。風を馬にみたてながら風景と感情との調和のなかで、風景をとおして、感情を発見しているようである。二首目、これは廃線におかれた汽車であろうか、景そのものは現実の風景でありながら、廃棄されている汽車を「鋼にもどってゆく」と把握することで幻想的な世界が立ち上がってくるように詠んでいる。心が風景を呼ぶというより、風景が心を呼んでくる歌になっており、美しく魅力的である。
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続いて、江戸雪から報告。まず、全体の印象として具体的な作者像が結びにくい、個人情報が少ない歌集であるとの指摘があった。
 
欠けゆける月の昏さを思ふとき逢ふて一月逢はで一月
 君籠めて消ゆるのぞみのはつなつのいろゆふつかたくだる京のきだはし
はやりをはさびしからずやあさ文に情ころせと無理強いてくる
 
この三首をとおして、恋人とおもわれる人物が登場するが、一貫して作者は一定の距離感をもって詠んでいる。何かがあって心を見つけてゆくのではなく、全てが終わってから歌い始めている。歌のなかでは自分の感情を殺しているようである。
また作者の美意識のあらわれている歌として
 
 みづうみにあはくさしだすただむきのこの世にあれば桟橋と呼ぶ
いをの身の反りに陰さすゆふまぐれ橋わたるときもっとも哀し
 
などの歌には、言葉の運びに自分のこだわりのもってゆき方がある。一首目の「ただむき」も「桟橋」も実体があるようでない。二首目も言葉をつないで流してゆく方法がうまくいっている。
 
アンナプルナ内院は光の器たゆるなく落つる磐音のあしたの響み
 
石ころが落ちる音が一首に響いており、空間のゆらぎを聞いている。耳がよい人であると思う。
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水沢遙子から、モチーフと表記についての言及があった。
 
 あらくさのひともとごとがふふみたるまろまろとしてこぼるる光 
 ささんくわのたをる間もなくこぼれたる白あはあはと小径にまぎる
 
 歌集Ⅱ部のあたりから、ひらがな表記が増えてゆく。その表記に微細なもの、微妙な思いを詠みこんでいる。また調べもゆったりしている。また、序詞的表現を取り入れている点に注目している。
 
 指まよりこぼるる花の色あはくつかまうとしてつかめなかつたもの
 武蔵野の原より生まれてゆく水のゆくへもしらず踏みしだかるる
 
これらは、古典和歌の序詞の手法をよりひろげて取り込もうとしている。
 しかし、しだいに主想の抽象度が高くなってゆく傾向がある。果たして主想は伝わるのか、読者の読みの分かれるところである。
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最後に大辻から文語の必然性についての考察が報告された。文語形式が深い哀しみにさらされた自分を支えるという働きをしているとの指摘があった。
   
    光明のやぬちふかくに及びきて母のひときの挽かれゆきたり
    昨夜踏みし塩のよごれのかなしかりいつものやうに朝またきて
 
 二首目は自分と母との絶対的なへだたりを詠んでいる。哀しみのかたちとして形象化した秀歌といえる。
   
   みづうみにあはくさしだすただむきのこの世にあれば桟橋と呼ぶ
 
 この一首はとりわけ美しい。遠いものへの希求がありながら、現実にひきもどされてしまう覚醒する哀しみをつかもうとしている。
        
            いささ川雨後たちまちに濁れるを吾とも見てや過ぐるあしたは
 
 この歌には生きることへの諦念が感じられる。自己認識が冴えていてせつない。定型の調べに心を定位させることで支える大きな哀しみ、モチーフがあるとき文語が生きている。また、文語で表現することで、自分では思ってもみなかった深いものを引き出している。
ただ、文語はモチーフがないとうまくいかない。後半は、歌が緩んでいるとの指摘が水沢からもあった。
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その後はパネラー同士のデスカッションにうつった。印象に残った発言を拾ってみる。
水沢から、今の時代にはゆっくり読ませる歌も必要との発言に、江戸からは調べに乗りすぎると線が細くなる。
 
魚村からは、散文的に言わないときに歌が強くなる、言わないこと(秘められたこと)があるときに歌は強くなるという見解が出され、魚村らしい短歌観であるとうなずいた。
 
会場からは吉川宏志の発言があった。ゆらゆらした文体であり、文体に作者の思想がある。意味よりも文体に重心をおいている。これらは、「言わない」文体である。しかし、一方で「主張する」文体も必要である。そうでないと弱くなってしまう。両方もっているのがよいというアドバイスにも説得力があった。
 
また小林久美子からは、古語を新しい形式で更新しようとする意気込みが感じられたとの指摘があった。
 
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最近の新人賞の作品にみられるように、口語の歌が主流になりつつあるなかで、緊密な文語体に固執しながら、しなやかな感性をういういしく表現しようとする黒田瞳の試みは価値あるものと思える。今後の活動に大いに期待したい。