眠らない島

短歌とあそぶ

樋口一葉の歌 その2

樋口一葉のうた」その2
 
ところで、一葉というのは、小説家としての筆名であり、歌には「一葉」という筆名は一度も使ったことはない。十年間ほどのすべての詠草には「なつ」「なつこ」と署名が書かれている。ここには、歌の作者としての樋口夏子がいる。そこで以後、呼び名を一葉から夏子とする。
 萩原朔太郎新世社版『樋口一葉全集』(昭和一六年)の第五巻「書簡文範・和歌」を編集するにあたって、その後後記に次のように記している。
即ち、佐々木信綱博士が、その編抄された『一葉歌集』の序に書かれているが如く、その大部分は所謂「型にはまつた歌」なのである。おそらく彼女はその師匠から、歌は素直になだらかに、そして優美に上品に、決して格を外さないように作れと教はつた。そして、その作歌の稽古は、学校の作文と同じやうに、多くは題詠によつて勉強された。正直にいってしまへば、一葉の歌の大多数は、全く「退屈なもの」にすぎないのである。
と嘆いている。近代口語自由詩の草分けである朔太郎らしい言葉である。たしかに、夏子の和歌のほとんどは、「今日の常識」から考えると、「退屈」な歌ばかりである。なぜなら、近代文学の出発点であり、その本質でもある「私」という個別的なテーマがほとんどぬぐい去られているからである。一見まったく無意味にみえてしまう夏子の膨大な詠草を前にして、再度、夏子にとって和歌とは何だったのか、考えさせられる。「にごりゑ」で、あれほど深刻な自意識の深みを表出させた作家樋口一葉。夏子の覚醒した意識は前近代と近代社会の裂け目を、その底辺で生きる女性の苦悩を鮮明にとらえていた。当時の最先端の知識人であった森鴎外幸田露伴らを驚嘆せしめた知性の持ち主である一葉。その夏子が果たして歌に対しては教えられたままに「型にはまった」歌を、なんの疑念もなく漫然と作り続けたのか、という問いが立ち上がってくる。最も近いところで、姉夏子を見てきた妹邦子の言葉がある。
姉は歌がほんとうにすきで、いま別府にいらつしやる田辺夏子様は、同年で中島門の姉弟子でございましたが、その方とはお親しくしました。その夏子様と一所にもつともつと研究して、もつともつと深い所まで行きたいと思つてゐたのでしたが、いろいろのことに追はれて自分の思ふ様のことはできなかつたのであらうと存じます。「短いもので最も自分の心をこめられるものは歌である」と考へてゐました。
歌を愛しつつも、夏子の晩年の時間は小説を書くことに忙殺されてゆく。夏子がこころに抱いていた「深い所」とはどんな境地であったのか。夏子が生きたはずの現実と歌との葛藤の時間をたどってみたい。
一七歳で父を亡くした夏子は、家長として母親と妹を扶養する義務を負うことになる。夏子一家の困窮ぶりに同情した歌子からは女学校の教師として推薦されるという話が持ち上がっていた。ところが、その話は進まないままに、明治二四年、同門の三宅花圃の勧めもあり、小説で生計を立てようとする。
 明治二四年四月妹邦子の紹介で「朝日新聞」の小説記者半井桃水を初めて訪問する。その後、たびたび足を運びながら、習作の添削を仰いだり、作歌への心得を諭されたりする。桃水の教えの通り、六月からは、上野の帝国図書館に通って、近世文学を独学している。友人伊東夏子の証言では、このころの夏子はまだ、漢字もろくに書けなかったようであり、原稿一枚書くのにも非常に苦労していたという。小学校しか出ていない夏子にまがりなりにも作家への手ほどきとしての教育を施したのは半井桃水といっても過言ではないだろう。その桃水へ、ほかに頼る者もない夏子が絶大な信頼を置いたのも当然のなりゆきである。桃水へ憧れる思いは日記のなかにあふれるように綴られている。
桃水との交際は、むずかしいと思われていた「実情と実景」を夏子の歌に与えていくことになる。夏子の詠草をみれば、一五歳のころから、題詠として大人っぽい様々な恋の場面を歌ってきている。しかし、今は「まこと」の喜びや苦しみを知り、それが歌に反映されてゆくようだ。
明治二四年十月の詠草には
限りなくうれしきものは我が思ふひとをば人のほむるなりけり
と、想う人が褒められることの初々しい喜びを素直な表現で詠っている。
また、後年の歌であるが
ただふたりさしむかふ夜の灯火は常よりことにまばゆかりけり
などは、桃水と文学について語り合って時を忘れていたころの喜びを回想しつつ飾らない表現で詠っている。
ところが、翌明治二五年、桃水との仲が噂になり、中島歌子から厳しく批判される。衝撃を受けた一葉は忠告に従って、一旦、交際を断つことを桃水に告げている。
明治二五年五月二九日から
我はじめより、かの人に心ゆるしたることもなく、はた恋し、ゆかし、などおもひつることかけてもなかりき。
…略…。今日を限りとおもひさだめて、うしのもとをとはんといふ日よめる。
いとどしくつらかりぬべき別路をあはぬ今よりしのばるるかな
夏子は、恋心など抱いたことはなかったと当時、繰り返し周囲へ弁解しているが、この事件で夏子は真情を複雑に屈折させてゆく「厭恋」のスタイルを萌芽させてゆくことになる。この姿勢は、後年まで変わらず、夏子の生き方をわかりにくいものにしてゆく。しかし、一見強がってみせた文章のあとの歌では、別れの切ない恋心を素直に歌いあげている。思うに、夏子にとって歌とは、フィクションという舞台装置を利用することで、公然と自分の真情を表現することが出来る器として自覚されたのではないだろうか。
このころ、萩の舎のなかでの様々な中傷にも傷つき、師である歌子との関係にも距離をおくようになっている。八月、自分の歌について次のような感想を記している。
誠は、ただ言葉をつらねたるのみにして、しのぶ草をふる屋の軒によそへわすれ草をすみよしの岸になげくなと大かたはいひふるしたる口真似ぞかし
今までの自分の歌は決まり切った言葉を並べているだけで、ただの口真似に過ぎないと突き放し、自分の歌の限界を客観的に認識している。夏子が萩の舎の詠風に物足りなさを感じ取っており、新しく自分らしい表現で歌を詠みたいという思いが汲み取れる。失恋の痛手は夏子の視線を内面に向けっていったようだ。内面で深く傷ついた少女にやがて静かな思索する時間が訪れてくる。
明治二五年八月二三日の日記から
今日はいと涼しき日なり。午後よりは、くる人もなくいと閑暇。めづらしく手習をなす。
 なみ風のありしもあらず何かせん一葉のふねのうきよなりけり
晩夏の美しい日が、簡潔な文体で書き留められている。歌もよい。