眠らない島

短歌とあそぶ

樋口一葉の歌 その1

樋口一葉論」  1
樋口一葉はその短い生涯に、四千首を超える歌を残している。小説家としての一葉が活躍したのは、「大つごもり」を発表した明治二七年一二月から二九年にかけての奇跡の一四か月である。そして天才女流作家として高く評価されるなか、惜しまれながら急逝する。それに対して一葉の歌は、その晩年の恋の歌がわずかに注目されるばかりである。しかし、作歌に関わった期間はその短い生涯の大半を占める。「萩の舎」にはいる前から、小学生の一葉は一一歳で和歌の手ほどきを受けている。一葉は、家計を支えるために、小説を書いて稿料を得る道を志したが、生涯の最も苦しい時期も、歌から離れることはなかった。そればかりか、一葉は歌人として、独り立ちすることを望んでいた節がある。なぜ一葉は歌を捨てなかったのか。一葉にとっての歌とは何だったのか。いくつかの作品と日記にあたりながら、微力ではあるが考察してゆきたい。
一葉が亡くなったのは明治二九年であり、子規が「歌よみに与ふる書」を発表し、和歌革新運動の口火となったのが明治三一年。一葉が歌作に精進した明治二十年代は、まだ旧派和歌が支配的な状況であった。一葉が一五歳から師事した中島歌子は香川景樹の流れを汲んでおり、花鳥風月の題詠を主とする古典的な詠風である。毎週土曜日がその稽古日であった。一葉の残した和歌のほとんどは、萩の舎に提出する題詠であり、自由に内面を歌いあげるには、束縛が大きすぎた。しかし、彼女も歌に押し寄せている新しい時代の機運を敏感に感じていたふしがある。
明治二六年一二月の日記に次のような記述がある。当時流行していた新体詩に反発しながらも、
 さりとて、みそひと文字の古体にしたがひて、汽車汽船の便のあるよに、ひとり、うしぐるま、ゆるゆるとのみあるべきにあらず。いかで天地の自然のもととして、変化の理にしたがひ、風雲のとらへがたき、人事のさまざまなる、三寸の筆の上に呼び出してしがな。
 さらにつづいて
人の心に入て人の誠をうたひ、しかも開けゆくよの観念にともなわざれば也。詞はひたすら俗をまねびたりとも、気いん高からばおのづから調たかく聞こえぬべし。
ここには、はっきりと歌人としての志をもっている一葉が見えてくる。彼女は、伝統的な和歌の体系の中に、新しい歌語を取り入れることに意欲を示している。
 行く船の煙なびかし吹く風にはるは沖よりくるかとぞ思ふ
(明治二六年二月)
この歌が詠まれた明治二六年、日本国内には岩崎弥太郎の興した日本郵船などが百二十余りの汽船を所有し、それまでの和風帆船にかわり、近代産業の物流を独占しつつあったという。この歌に詠まれている「煙なびかし」「行く船」は、もちろん、当時の東京湾を航行してゆく大型汽船をいうのだろう。春の海を悠然と滑ってゆく船をみていると、その煙が風にゆるやかになびいている。まるで、春は海の沖合からやってくるようだ。やわらかな海風につつまれて、沖に浮かぶ汽船。かすんだ空に立ち上ってゆく白いけむりは春をさそいだす近代的な風物として新鮮な題材であり、汽船がまるで春そのものの化身のように憧れをもって歌われている。歌の調べは整っており、言葉も平明である。定型のなかで作者の情感は、船の浮かぶ明るい春の海にひろがってゆくようだ。この歌には、古典的な類型に収束しない作者の真情がのびやかに詠まれており、可憐でもある。ここには、師、中島歌子の歌論である実景に即して詠むという方法が生きているように思う。
明治二五年、一葉は七編の小説を書いて年末にわずかの原稿料を手にした。樋口家には久しぶりにのどかな正月が訪れる。
いとのどかなる大晦日にて母君家を持ちし以来この暮れほど心を持ちしことなしとていたく喜ばる。
ところが二月六日の日記は一転して苦しい心境が綴られる。
空はくもれり又雨なるべしと人々いふ。著作のことこころのままにならず、かしらはただいたみに痛みて何事の思慮もみなきえたり。
 小説の原稿料で、家計を支えようとしつつも、その構想に苦慮する若い一葉がいる。おそらく、一葉の体を死に至らしめる結核も静かに進行していたのだろう。激しい頭痛にも襲われている。そして、この日の日記は悲痛な叫びで閉じている。
家は貧苦せまりにせまりて口に魚肉をくらはず。身に新衣をつけず、老いたる母あり、妹あり。一日一夜やすらかなる暇なけれど、こころのほかに文うることのなげかはしき、いたづらにかみくだく事のさやの哀れうしやよの中。
貧苦の中で、文学を生活の糧とする不本意を、その身の上を心底から呪っている。
汽船の歌は、この日記が書かれた同じ月の作である。歌と日記に映し出される感情の明と暗。ここにあらわれる作者像の落差の大きさに驚くほかない。
 一葉が、萩の舎に入門したのが、明治一九年。まだ父も健在であり、経済的にも余裕があった。入門して間もなくの作品。
誰か夢を出てきぬらん桜花匂へる園に遊ぶこてふは
(明治二十年四月)
誰の夢から抜け出てきたのだろうか、満開の桜の園に舞ながら遊んでいる蝶は満開に咲き誇る桜の花から花へと舞う蝶を、誰かの「夢」から抜け出てきたのだという。「夢」「桜花」「園」「こてふ」と使われている語は、すべて規範的な枠組みのなかで使われてきた典型的な歌語である。それらの歌語を、平明で浪漫的な情感にのせてゆったりと構成している。現代短歌を読み慣れたものにとってはかえって新鮮な感じを受けないでもない。匂うような桜の園にはうら若い十六才の少女が立っている。桜の園に舞う蝴蝶はおそらく少女の見果てぬ夢そのものであったろう。
ところで明治二十年正月の日記に次のようにある。
此の月は発会の事にて侍れば九段の坂上なる万亀楼にてありけり。人々もはや来たまひてこなたへとのたまはするに、目とどめてみてければ、けにや善尽くし美つくしたるきぬのもやうの色かがやくばかり引きつくろひたまふ。
良家の子女が多く入門している萩の舎は、下級士族の子である一葉にとっては決して居心地のいい場所ではなかった。着て行くものにも神経をすり減らさねばならない雰囲気をもっていたのも現実であろう。俗世間の目にさらされながら、歌修行は月ごとの例会に提出する題詠を中心に続けられることになる。それは、古今集を筆頭とする古典文学の学習、さらに古典的和歌の秩序を支えている美意識の類型とその表現様式である歌語に集約される文化の習得にほかならなかった。