眠らない島

短歌とあそぶ

宮沢賢治短歌への試論パート1

宮沢賢治短歌への試み
 
 
這ひ松の
なだらを行きて
息吐ける
阿部のたかしは
がま仙に肖る
 
これは明治四四年、盛岡中学三年生、一五歳の宮沢賢治が詠んだ歌である。「阿部のたかし」とは賢治の級友の「阿部孝」であり、このころ盛んに岩手山登山をした仲間である。おそらく登山中、息の上がった友人を揶揄った歌であろう。往年の聖人宮沢賢治像とはかけ離れたやんちゃな中学生ぶりである。しかもこの歌は、初期の一行書き形態の「歌稿A」にはなく、のちに「歌稿B」として歌を分かち書きにして清書したときに書き加えられている。賢治としてはよほど愛着のある一首だったのであろうか。また「歌稿B」に次のような歌もある。
 
鉄砲を
胸にいだきて
もそもそと
菓子を
食へるは
吉野なるらん
 
明治四二年七月に騎兵第三旅団が盛岡に新設され、盛岡中学生はその閲兵式を見学している。また、このころ年に二度、軍事演習が中学生にもあったらしい。明治四四年九月三〇日、三年生以上は一本松演習場で発火演習を行い、夜営している。この歌はそのときのものらしい。しかし、実際の銃をもっての演習の最中に「菓子を食」う「吉野」くんが登場するなんとも暢気な光景である。そして、わざわざ「もそもそと」と仕草をいれ、ご丁寧にも分かち書きにする賢治のユーモアにおもわず笑いを誘われてしまう。後に絢爛たる童話として花開く賢治の文学には天真爛漫なユーモアが溢れており、それが賢治童話の懐をふかいものにしていると言えないだろうか。
宮沢賢治という人を捉えようとするとき、あまりに多様な顔があり、多岐にわたる作品が残されているのでどうにもまとまりがつかない。近代詩上燦然と光を放つ『春と修羅』の詩人であり、また優れた文語詩も残している。しかし、ここでは、その文学活動のもっともはじめにあった短歌の世界を糸口にして       賢治という人の資質を探る試みをしてみたい。
賢治の初期の作品で、よく知られた歌を引く。
父よ父よなどて舎監の前にしてかのとき銀の時計を捲きし
 
明治四二年四月一二日、一三歳の賢治は父政次郎の伴われて、盛岡中学の寄宿舎に入り、そこで、舎監に面会挨拶をしている。そのとき、政次郎は懐から大きな銀時計を取り出して、これ見よがしに捲いたというのだ。「父よ父よなどて舎監の」と畳みかけるような切迫した物言いから、通り一遍ではない賢治の父への押さえきれない苛立ちや反感が伝わってくる。この歌は一三歳の賢治が作ったのではなく、後に書かれたと云われているが、そうであるなら余計にこの時の父の仕草が賢治にとって我慢ならないほど恥辱の記憶として焼き付けられていたことになる。賢治とて自意識を研ぎ澄ました思春期のまっただなかにいたことになる。
賢治と父親との関係はどうであったのか。生涯にわたる賢治の父政次郎への書簡はすべて候文で統一している。学校生活での経費の報告は実に丁寧である。後年、東京に出たときなどは、ほとんど毎日のように手紙を父宛に出している。手紙の文面から、現実の関係では父に対して頭があがらなかったという様子が浮かびあがる。しかし短歌のなかでは、多少なりとも、こうして父への鬱憤を晴らせたわけである。
 賢治が文学活動として意識し短歌を書き始めたのは一五歳のころだったようだ。翌年、一一月三日の父への書簡のなかに次のような文面がある。 
又、たぶん小生の今年の三月頃より文学的なる書をもとめ、かなり大きな顔をして歌など作るを御とがめの事と存知申し候ふ。
 
短歌から文芸に触れてゆくというのは当時の中学生としてはごく一般的な過程であったろうが、ここには実学を重視する父への遠慮が伺われる。父が心配するとおり、このころ、すでに賢治は学業からは気持ちが離れている。前年の友人への書簡では、夏休みの登山について「家人といかないとこれだからいい」と解放感を楽しんだこと、成績の悪いこと、舎監へ憎まれ口、そして
「僕は来学期も僕独特の活動をしようと思っている」とうそぶいている。「僕独特の活動」とは、岩手山登山や、文学への関わりを指すのであろうか。中学三年のときの寮生活で同室であった宮沢嘉助の証言では、
  賢さんは学校の成績はあまりよくなかった。というより寧ろ悪かった様に思う。悪いはずだ。賢さんはほとんど勉強しなかった。無心に勉強しているなと思って覗いてみると、私などには到底理解できそうもない哲学書だった。
 こういう証言から、学業に身が入らない文学かぶれのませた中学生像が見えてくる。
 
話が逸れたので、短歌にもどる。ここで三首引いて気がついたことが一つある。この三首とも他者を描いているのみで、賢治自身の思いは直接に語られていない。三首目などは、自分の思いを洩らしてもいいところを「などて」と問いかける形で押さえている。三人の人物の所作を描き、それぞれの人物像を伝えているが、それを視ている賢治自身の像は不鮮明である。賢治の関心は直接自分の内面にむかわずに、まず外界に向けられてゆく。その外界に向かう感覚を起点として、賢治の文学の世界は始まっていったように思われる。
 明治四四年といえば、すでに自我を謳歌する浪漫主義は下火となり、それに変わって北原白秋らが感覚を先鋭化した歌を発表していた。また、盛岡中学の一〇歳先輩である石川啄木が明治四三年に『一握の砂』を刊行している。それらを賢治は読んでいたはずである。
 賢治の最も初期に位置する「歌稿A」明治四四年一月と題を付けられた二二首から一〇首を抜粋してみよう。
 1み裾野は雲深く垂れすずらんの白き花さきはなち駒あり
 2さすらひの楽師は街のはづれにてまなこむなしくけしの茎嚙む
 3冬となりて梢みな黒む山上に夕陽をあびて白き家建てり
 4桃青の夏草の碑はみな月の青き反射のなかにねむりき
5楽手らのひるはさびしき一瓶の酒をわかちて銀笛をふく
6雲たれし裾野のよるはたいまつに人をしたひて野馬はせくる
7そらいろのへびを見しこそかなしけれ学校のはるの遠足なりしが
8瞑すれば灰色の家丘に立てりさてもさびしき丘に木もなし
9やうやくに漆赤らむ丘の辺に奇しき服つけし人にあひけり
10あはれ見よ月光うつる山の雪は若き貴人の死蠟に似ずや
 
すずらん」「楽師」「白き家」「夏草の碑」「銀笛」「そらいろのへび」等々、賢治の感覚が外界の様々な事物に触れて乱反射している。ここには、石川啄木のような自分語りや、明星調の自己陶酔もない。どちらかというと白秋の影響が伺われる。しかし感覚に溺れるというより、むしろおそるおそる外界に触れようとする不安な自意識が漂うように歌われている。
 一首目は「すずらんの白き花」がモチーフであるのだが、空には早くも「雲深く垂れ」こめている。二首目の「楽師」は「まなこはむなしく」町外れに立つのみである。三首目の「白き家」はあこがれとして見えているようだが、八首目ではそれは「灰色」にかわり、「さびしき丘に木もなし」と寄る辺がない。最後から二首目で「奇しき服つけし人」という異様な存在が立ち現れる。この歌はのちに次のように添削され、分かち書きにされている。
 ひとびとは
鳥のかたちに
よそほひて
ひそかに
秋の丘を
のぼりぬ
「奇しき服」という説明的な表現は「鳥のかたち」と詩的に処理され、「あひたり」という私を消すことで枠が外れ、どこか所在のあいまいなそれゆえ幻想的な世界へと変貌している。もっとも注目すべきは最後の一〇首目である。
あはれ見よ月光うつる山の雪は若き貴人の死蠟に似ずや
ここに実際にあるのは「月光うつる山の雪」なのである。青い月の光をうけて滑らかに輝いている山肌を凝視する賢治の目に見えてきたのは「若き貴人の死蠟」である。聖なるものの根源に死を視みようとする文学の典型的な感覚が萌芽している。そう見えてしまう自分自身へのおののきが初句の「あはれ見よ」には込められている。のちに展開してゆく賢治文学の主調低音である「聖と死」というモチーフと、幻想性への起点にこの歌があるように思われる。
 
次に「歌稿A」に「明治四五年四月」と題された五〇首ほどの中から、いくつか歌を引く。賢治一六歳の年である。
  山鳩のひとむれ白くかがやきてひるがへり行く紺青の空
五〇首の中では、最も中学生らしい素直でさわやかな、そして平凡な作品である。しかし、次に並べる作品はどうだろう。
白きそらは一すぢごとにわが髪を引くここちにてせまり来たりぬ
黒板は赤き傷受け雲垂れてうすくらき日をすすり泣くなり
鳶色のひとみのおくになにごとか悪しきをひそめわれを見る牛
泣きながら北に馳せゆく塔などのあるべきそらのけはひならずや
あすのあさは夜あけぬまへに発つわれなり母は鳥の骨など煮てあり
ブリキ𨫝がはらだたしげにわれをにらむつめたき冬の夕方のこと
一首目、「白き空」がすでに景ではなく、どこか邪悪な生き物として迫ってくる。「一すじごとにわが髪を引く」という表現は修辞のレベルを越えて、なまなましい実感として表現されている。二首目の黒板の歌。おそらく「赤き傷」とは、黒板に残っている赤いチョークの消し残しだろうと思われる。「すすり泣く」は多少甘いが、「赤き傷受け雲垂れて」あたりの不気味さはどうだろう。ここでも「すすり泣く」のはあくまでも「黒板」であり私ではない。単なる擬人化のようには思えない。黒板が「うすくらき日」を「すすり泣く」と賢治には感受されている。
三首目の牛。牛や馬の瞳は黒目がちであり純真なものとして目に映る。しかし、そこに「悪しきをひそめ」ていると見えてしまう。ある邪悪さが「私」を凝視して放さない。これは賢治自身の内心の不安の反映であろう。
四首目「塔」の歌。「泣きながら北へ馳せ行く塔」がある「そらのけはい」を反対に読むと、空に北に向かって走ってゆく「塔」があり、それが「泣いている」ような気がするということになる。おそらくこれは、北へ流れてゆく雲の描写であろうと解釈は可能である。しかし、そういう凡庸な解釈を拒むような幻想性がある。空を北へ向かって走ってゆくものはどうしても「塔」なのである。悲劇的な記憶にまつわる陰惨な「塔」が賢治の空に蠢いている
五首目、帰省していた賢治が、家を発つ前の夜。母が台所に立っている。文脈からは息子のための弁当の総菜を用意しているように読める。しかし、この母が煮ているのは「鳥の骨など」である。いったい何故、「鳥の肉」ではなく「鳥の骨」なのか、骨を煮るのは異様である。また、「私」の心情は一切吐露せず、「鳥の骨」を煮る母の後姿だけが影絵のように浮かんでいる。母の姿は夢のなかの光景のようにも思える。六首目のブリキ𨫝も三首目の牛に通じるものがある。