眠らない島

短歌とあそぶ

笹井宏之試論パート2

 第二歌集『てんとろり』になると読みづらさは影を潜める。これは、遺稿集ということで、かなり丹念な編集の手を経ていることも原因しているであろうが、そればかりとはいえない。それは、作品発表の場が、結社誌という紙媒体に移ったことが笹井の作歌意識を少なからず変化させたことは疑いない。
笹井は「新彗星第一号」の鼎談で次のように述べている。
めちゃくちゃな感じがなくなったのはすこし寂しいかもしれません。読者が明確になりすぎた、というか。今では「読者は彗星集の皆さんが、強くなってきています。もっと不特定多数の人と向きあっていたころの歌のエッセンスを取り戻したいなとも思っています。
紙面に掲載されることで、笹井の歌にある種の自己統御が働き始めている。紙面に掲載された初めての連作は先にあげた「ゆらぎ」である。続いて「昏睡動物」(新彗星一号初出)、「てんとろり」(総合誌「短歌」初出)と進むにしたがって歌の密度が高まり、緊密感のある連作になっている。
しかし、このことは笹井にとって諸刃の剣となり、起爆力であった「歌のエッセンス」を手放すことでもあったのだ。
真水から引き上げる手がしっかりと私を掴みまたはなすのだ  『ひとさらい』
ここでの「真水」は自身が閉じ込められている世界であり、水上の世界へ「引き上げる手」が切実に求められている。しかし、つかの間引き上げられたとしても、現実的に自分を救済してくれることはない。歌人笹井にとって「ひきあげる手」とは「歌のエッセンス」であり、言葉の世界で自意識から解放されることを強く願っていたはずだ。
 冬の野をことばの雨がおおうとき人はほんらい栞だとしる
ことばの雨のなかで静かに垂れている栞でありたい、という。これは言葉のなかに自分を消してしまいたいという衝動にもつながるのかもしれない。
ネット空間では言葉は意味から解き放たれ、笹井は自由にその世界で飛翔することができた。それが一見野放図にみえても、笹井にはそうしなければならない必然があったのだのだろう。「私」を希薄化することで、世界を肯定し、すべてを受け容れること。そういう世界へ自意識を解き放つこと。
しかし、作歌意識が微妙に変容するなかで、笹井の言葉は飛翔するよりも、深みに降りていこうと働くようになる。
折り鶴の羽をはさみで切り落とす 私にひそむ雨の領域
 飛ぶことをあんなに祈っていた「折り鶴」の羽を切り落とす。そして笹井のなかに「雨の領域」が静かに広がってゆく。
白鳥の背中がめくれワンサイズ小さめの白鳥が出てくる
「背中がめくれ」という表現には、自分の体を傷つけ引き裂くような痛みがある。そして出てくるのは、小さめの白鳥。この白鳥は決して飛翔することはない。むき出しになった哀しみそのもの化身のようだ。
どんぞこを掘るとひじょうにみずに似たものがでてくるだけのどんぞこ
 この投げ出されたような歌の暗さに思わず立ち止まってしまう。「どんぞこ」とはあらゆる関係をたたれた過酷な世界への感受であろう。そこには「ひじょうにみず」に似たものが出てくるが、それは水ではない。笹井にとって本来の「みず」は様々に変幻しながら世界とつながる「可能性」という属性をもっている。「どんぞこ」の「みず」は深く閉塞され、汚濁し、孤立している。ここには厳しく世界から拒まれているという自己凝視がある。
 
連作「てんとろり」は、初出を見ると、「角川」二〇〇八年十月号となっている。未来賞を獲得し、さらに第一歌集「ひとさらい」が驚異的な注目を浴びていた年である。そういう状況を笹井はどう感じていたのだろう。晴れやかな現実とは全く相容れないのがこの作品の世界である。
   ひどくほそいひとが扉のむこうから鍵穴をとおってやってくる
 「ひどくほそいひと」は不幸な影がまとわりついている。その人が、鍵穴をとおっておそらく「私」の部屋にやってくるのだ。「私」はその人を待っているわけではない、むしろ怯えているようだが拒否もしない。ここには不吉な予感が流れている。
   あなたには雪の降り止まない海があるの
だし、魚を買えばいい
かつて恩寵であった魚は「私」には与えられない。「買」うことが出来るのは「あなた」であり「わたし」ではないのだ。ここで「雪の降り止まない海」はわたしとあなたを隔てている幻想として美しく立ち上がってくる。それにしても、「あるのだし」「買えばいい」といった投げやりな物言いがせつない。
   完全な調和が町のはずれにありとてもわ
たしに似ているという
ここにも、疎外感が流れている。「完全な調和」があるのは「町のはずれ」であって、「わたし」自身ではない。ここで気になるのは「という」という止め方だ。「私に似ている」と断定するのではなく、私にささやきかけるものが介在している。その関係はどこか冷めている。たとえば第一歌集によく見られた次のような歌の構造。
「スライスチーズ、スライスチーズになる前の話をぼくにきかせておくれ」
括弧にいれてふきだしにすることで、この言葉の発話主は宙に浮くが、このささやきには親密感がある。これは、自分の内的言語を読者に差し出すときに働くある種の軽い恥じらいをあらわす仕掛けではないかと思わせる。だから間接話法にはなっているが、不思議に距離感はない。それがさきの引用歌では同じ間接話法ではなるが、どこか人ごとのような、
倦怠感さえ漂っている。
  鳥籠にちゃんと名前をかいておく そう        
  して生きてゆかなくてはね
鳥はもう空を自由に舞うことはない。鳥籠の鳥には名前を付けなければならない、これは現実の世界で折り合いを付けながら生きていこうとするひとつの断念であろうか。
 
『てんとろり』の歌集後半になってくると、ますます、読んでいて辛くなる歌が目に付く。
あした死ぬかもしれないのにどうして壁をのぼっているの
水鳥をうみつづけてしあわせになれないことを知っていて 産む
「あした死ぬかもしれない」とは、取りたててめずらしいフレーズではないが、「壁をのぼっている」という現実認識が奇妙にリアルさを加えている。生きることが笹井には苦しみとしか感受されていない。水鳥の歌も悲しい。水鳥は笹井にとっては「歌」ではなかったのか。
よかったら絶望してくださいね きちんとあとを追いますからね
ゆきげしき みたい にんげんよにんくらいころしてしまいそうな ゆきげしき
優しい言い回しの裏に、笹井の押さえきれない憤りや憎悪が透けて見える。不遇や不条理さへのやるせなさが暴力性を帯びているようにも思える。とくに二首目には、自身の理性が壊れてしまうことへのある種の願望と恐怖が垣間見える。全文平かな表記には、この言葉がまるで苦しみのうわごとのような迫真性がある。何故このような苦しみに陥っていたのか。憶測にすぎないが、笹井にとって幼年期におこるような言葉との至福の時期が終わり、この時期、真剣に言葉と苦闘しつつ、自分自身の水脈を掘り当てようとしていたのでないかということだ。
折り鶴をひらいたあとにおとずれる優しい牛のような夕暮れ
「折り鶴」はもう飛ぶことはないが、夕暮れの静けさの中にその姿をひらいてらいでいる。美しい歌である。笹井は、二〇〇九年一月二十四日にインフルエンザのため突然その時間を絶たれてしまった。私たちに許されるのは、一青年の編み出した希有な言葉の世界を記憶し、何度も読み直してゆくことだけである。