眠らない島

短歌とあそぶ

笹井宏之試論パート1

「笹井宏之試論」       
 
 笹井宏之の遺稿歌集であり、第二歌集となる『てんとろり』が刊行された。奥付は二〇一一年一月二十四日、二六歳の若さで世を去った笹井宏之の三回忌の命日である。恩師である加藤治郎と、結社誌「未来」の加藤選歌欄のメンバーである中島祐介の二人が、二年間をかけて資料収集し、編集した笹井の遺稿歌集である。たぐいまれな才能を持ちつつ、彗星のように姿を消してしまった笹井という歌人を、伝説の歌人ではなく、自立した一歌人として正確に位置づけるためにこの作業は行われた。真の笹井論はおそらくここから出発していくのだろう。
この歌集は第一歌集『ひとさらい』以降、笹井が結社誌「未来」に発表した歌が中心となっているが、総合誌、ネット、新聞投稿欄など多岐にわたるメディアをとおして笹井が発表した作品を丹念に収集している。初出一覧を見ながら、改めて、笹井に抱いてきた病弱なイメージとは少し異なる旺盛な活動を展開していたことを知らされ、驚きを感じる。
 略歴からみると、笹井が歌を作り始めたのは二〇〇四年であり、翌、二〇〇五年には第四回歌葉新人賞を受賞している二〇〇七年一月に未来短歌会に入会。そして同年の未来賞も攫ってしまった。第一歌集『ひとさらい』は、笹井への注目がネット以外の場でも高まった二〇〇八年一月に刊行され、若い人を中心に熱狂的な人気を呼び一躍笹井を時の人に押し上げた。そして、二〇〇九年一月に笹井は二六歳の若さで急逝し、多くの笹井ファンに衝撃を与えたまま、その空白をどう埋めてよいか途方に暮れさせたのだ。今回の『てんとろり』はそういう意味でも、笹井をもっと知りたいと渇望する人々にとって大きな安堵と充足感をあたえるに違いない。
 今、笹井の第一歌集と第二歌集を通むことが可能になり、ようやく全体像が見通せるようになった。ともすれば、夭折の歌人として神格化されそうな笹井であるが、「二〇代の歌人」として残した短い足跡は一様ではなかった。ここでは、『ひとさらい』から『てんとろり』の時期に歌がどう変化したかに焦点をあてながら、笹井宏之の眩しい作品世界の光源にせまる試みをしてみたい。
 
『てんとろり』に所収されている「ゆらぎ」は美しい連作である。この作品で笹井は入会した年の未来賞を受賞している。
   おそらくは腕であるその一本へむぎわら帽を掛ける。夕立。
 巻頭歌の一首。笹井の歌の特質として、その言葉の具体性の欠落ということがいわれる。
この歌にもそれがいえる。ここにあらわれてくる「腕」は、笹井と現実的に関わりのある誰かの「腕」とは思えない。その腕は、笹井の幻想の世界でぽつんと壁からつきでているように存在している。そこに「むぎわら帽を掛ける」という行為が陳述される。「むぎわら帽」から夏という属性が喚起され、最後の「夕立」にかすかに意味の連鎖がおこる。
腕に帽子を掛けるという、奇想めいた発想のこの詩が何故、鮮やかな印象をのこすのだろう。一つには笹井は直感的に「腕」という言葉を本質的な意味で使っていることに起因するような気がする。少し遠回しな言い方になるが、私たちは「腕」によって外界と直接に関わりをもつことができる。物を掴んだり、投げたり、或いは抱きしめたり。「腕」とは世界との「関係性」そのものであると言えないだろうか。この引用歌の腕は世界との関係性の糸口としてあらわれるのだけれども、「腕」は自らどんな行為もしようとはしない。ただそこに無造作に「一本」あるだけであり、そっと「むぎわら帽子」が掛けられる。この行為によって、この世界にはじめてひとつの「関係」が成立する。それはとても控えめで、恥じらい深く、それゆえに美しい。抽象的だけれども、初々しい愛情の発露のようでもある。ここにはおそらく、笹井自身の願いがあるのだろう。しかし、その願いは何故かすでに失われてしまっているような不吉さも匂っている。「おそらくは腕である」ということで、それは「腕」ではないかもしれないという不安が喚起される。その曖昧さが、やわらかい哀感をこの歌全体に与えているようである。
   一様に屈折する声、言葉、ひかり わたしはゆめをみるみず
この歌は笹井の歌としては素朴であるが、それだけに笹井の歌の作り方をよく語っている。自分は水面下におり、いや、水そのものでもあり、それゆえ地上的な世界からはやや遠い。そこでは、「言葉」は「一様に屈折する」しており、具体的な意味合いを失っている。現実の「私」から離れ、視点を浮遊させることで、「宙づり」感がうまれ、自由自在に夢想することができるのだ。おそらく、歌を作るときの言葉は笹井には世界のパーツのように降注いできたのではないだろうか。そのなかで、花びらを集めるように、笹井は卓抜な感性で言葉を選び取り、つなぎ合わせながらイメージを獲得していったような気がする。
  足のある魚が部屋へ飛び込んできたので靴をあたえてやった
しおみずと真水の違いでしかないわたしたち ただ坂を下った
白砂をひかりのような舟がゆき なんてしずかな私だろうか
『ゆらぎ』という連作は、自身を水に見立てるという設定がなされている。おそらくそこには、水のように世界とふかく交わりあいたいという願いがあるのだろう。生命感に満ちた世界には、ときに恩恵のように「魚」が訪れる。その魚に笹井は「靴」を与える。笹井の仕草は限りなく優しい。それは世界への感謝の証でもあるはずだ。しかし、笹井の夢想にはうっすらと諦念が漂っている。世界と完全に調和することは不可能だから。「しおみずと真水の違い」でしかないが、やはりあるべき世界からうすく隔てられているのだ。それでも「なんてしずかな私だろうか」とつぶやくとき、笹井はあるがままの自分を肯定しようとしている。
耳鳴りがわたしを好むのもなにか小さな愛のような気がする
手のひらのはんぶんほどを貝にしてあなたの胸へあてる。潮騒
ここには、世界から拒まれながらも、かすかな調和をもとめつつ生きようとする笹井の祈りがある。それは二〇首全体にゆきわたる連作意識によって形象化されている。韻律の美しさも目を引く。笹井はこの時期には明確に短歌定型を意識している。
また、この二〇首の連作に、笹井の詩想を動かすアイテムがほぼ出そろっている。水、鳥、風。水は、世界との親和の姿であり、身体という枷を解き放たれて、変幻自在する。
そして、鳥、風、は歌集の随所に現れる。
風。そしてあなたがねむる数万の夜へわたしはシーツをかける 『てんとろり』
 貧血の鳥の頭をふくむとき私にみちてくる風がある
鳥と風は、希求する世界へ飛翔し、調和するための媒体として機能する。また時に、そこからの恩寵のように現れる、魚、桃、島。
ゆめをみる水槽として純白の魚を一尾むねへしずめる   
ひらかれてゆくてのひらを鳥が舞いみえかくれする島のきりぎし
これらの簡素な言葉が笹井の透明感のある静かな抒情を編み出している。島は現実の地図上に実在する島ではないし、魚にも名前は与えられていない。実在する世界から切り離されたこれらの言葉は現実的な像を結ぶことは決してない。それだけに、純粋な心象として詩空間に輝きをはなっている。
 
未来賞受賞のことばに笹井は次のように述べている。
歌をつくることは、ひとときの飛行です。着地できるかどうかはわからない風と濃霧のなかの言語フライト。降り立つときに聞こえるかすかな三十一音のしらべ。
 
この言葉どおり、笹井の歌は現実の「私」を詠む詩形ではなかった。詩の中で彼はできるだけ、地上の意味から解放されようとしている。具体性をそぎ落とした世界で、言葉のイメージをつなぎ合わせながら幻想的な美を作り出す。それはあるときは、成功したかに見える、着地がうまくきまったときには…。しかし、それは風任せの危うい飛行であったことも確かだ。
 笹井宏之は、当初インターネットを媒体として発表していた。その時期の作品を収めているのが第一歌集『ひとさらい』だ。
  「はなびら」と点字をなぞる ああ、これは桜の可能性が大きい
内蔵のひとつが桃であることのかなしみ抱いて一夜を明かす
ねむらないただ一本の樹になってあなたのワンピースに実を落とす
今では、ほとんど人口に膾炙したといえる作品。うっすらした悲しみと、世界との親和のへの願い。ここにはまぎれもなく笹井の美質がある。しかし、次のような作品出会うと、どう接していいのか途方に暮れる。
  頚椎へ釘打つ職人コンゴ地区優勝候補全員逮捕         『ひとさらい』
ウエディングケーキのうえでつつがなく蠅が挙式をすませて帰る
笹井がこれらの作品でどのようなポエジーを伝えようとしたのか、残念ながら理解する回路をもたない。ただ、いえることは、笹井がこれらの作品を流したのは、ネットという混沌とした空間であり、そこでかれは意味をそぎおとした言葉によって軽々と「飛行」できると考えていた。しかし、言葉は像を結ぶことなく、ネットという無限定な空間のなかで拡散し回収不能になってはいないだろうか。
  愛します 眼鏡 くつひも ネクターの桃味 死んだあとのくるぶし
『ひとさらい』
この作品は初句に「愛します」と言挙げする。意志によって、羅列される名詞が統御されている。すべてのものは等価である、敢えて言えば死でさえも。というメッセージが読み取れる。『ひとさらい』には、様々な位相の歌が混在している。その原因のひとつとしては、やはり歌の技術の未熟さがあると言わざるをえないのではないだろうか。