眠らない島

短歌とあそぶ

江戸雪 第五歌集 『声が聞きたい』

 
 ありがとうはきれいな言葉うつむいて青い手袋ゆっくりはめる   
 
江戸雪といえば、強い情念を抱えた歌人という印象がある。今回の歌集でもやはり強い自我意識が歌集全体に量感をもたせているように思う。ただ、今までの歌集とちがって言葉と感情がうまく絡み合っていて滑らかな印象を歌集全体が放っているように感じた。おそらく、この歌集を編むことで江戸雪は自分自身が抱え込んできた強い情念から解き放たれたのではないか。それほど、言葉が作者のこころに寄り添うように選ばれている。その印象の背景には、しなやかな口語体を使っていることがあるだろう。しかも口語の陥りやすい散漫な感じや無理な修辞からは遠い。言葉の透明感をうまく引き出して、詩情にのせている。冒頭に上げた歌によくその質の高さが表れている。上から下へと言葉がとても幸福な繋がり方をしているようだ。
 
 歳月といえるほどまだ生きてなくて落ち葉のうえを自転車でゆく    
 
こう詠む背景には「歳月」のもつ厚みを江戸自身が感じているからだろう。そんな余裕のある感慨がこの歌からは伝わってくる。ここには断片的な「私」はいない。どちらかというと、青春と決別し、人生の中盤にさしかかろうとする自己像が肯定的に詠われている。自分の短歌の中に「歳月」という「錨」を降ろすこと。過ぎ去って行く時間を生きて来た軌跡である「生涯」として改めて受け入れる作歌姿勢が見えてくる。この歌集は2009年から2014年まで厳格な章立てで編年体に区切って歌が並べられている。こういう構成のしかたに、自身の短歌世界を構成する強い意志を感じる。編年体にすることで、「歳月」を再現し、生身の自己像を編集しようとする。そこには実体のある存在としての全体性への強い希求がある。
 
「あんたなんか」と言われた日もある その声は椿の照葉のようにきれいで  
言葉が哀しみをおこしてしまうかもしれないそれでも書く 北へ   
いま空がね、風がね、などと言いながら言葉がなにを伝えるだろう    
 
一首目、「裕子さん」と題された一連の中の一首。河野裕子への陰翳のある心情が鮮明に詠われて印象深い。こういう生な歌が歌集に時間性をもたらしている。二首目は「東日本大震災」と題された連作からの一首。言葉を発することの困難な状況で、なお果敢に詠おうとする姿勢に揺さぶられる。そして三首目、「空」「風」などの耳ざわりのよい言葉が歌に溢れることの空虚さを素直な実感として差し出していて、はっとさせられた。
 
江戸はこの歌集で「言葉」や「声」ということに強いこだわりをみせている。「この歌集におさめる歌を作っていた間、そして今も/子どもっぽいほどにこだわっている/言葉」「生身から発せられる声が/とても大切に感じる。/声が聞こえてくる歌を作りたい。」とあとがきに記している。人との関わりのなかで感情が生まれ、それが言葉になる。その感情と言葉がひとつにとけあった形が「声」である。そこにこの歌集のタイトル「声を聞きたい」にこめた思いがあるのだろう。言葉は人と人を繋ぐもの。人との繋がりを回復することで、自分も蘇生したいとの願望が切実に伝わってくる。
 
この先のこと話そうか昼過ぎの雨にしめった帽子を脱げり      
今日の花、明日の花と連なりのやさしさに咲く花フリージア   
逢った日はあなたの言葉がのこる胸 空には鳥が羽ばたいている 
 
 一首目は歌集巻頭歌。「この先のこと」に対しての言いようない不安が「湿った帽子」に託されている。ここには関係のなかでの不全感が漂っている。ところがこういう翳りは歌集の後半から一変する。二首目は二〇一二年、三首目は二〇一三年の部から引いた。自分の前に広がる時間を、脅かすものとして感じるのではなく、輝くような喜びとして感じている。三首目では「あなたの言葉」が恩寵のように降り注ぐ。歌集後半は、幸福感に包まれた相聞歌で埋め尽くされる。
 
 うらづけのある愛なんてつまらない新しくきみおはようと言え    
 
ゆるい自意識の歌が増えている昨今、その流れを拒否するような強い自意識に組まれた歌を打ち立てようとする。その詠いぶりは颯爽としており挑戦的でもある。しかしその強靱な求心力を維持するために一貫した物語が必要になってくる。この歌集では「別れから新たな恋へ」という筋書きが時系列に構築されている。その点ではとても読みやすいのであるがやや予定調和的な印象もまぬがれない。しかし、その通俗性を補ってあまりある歌の上手さがある。短い詩型がなんともゆたかに言葉を奏でている。
 
 木津川はわたしのからだのなかをゆくようにおもえて明日も笑おう   
 
 もういちど逢うなら空をつきぬける鳥同士でねそしてそれは夏