眠らない島

短歌とあそぶ

吉岡太郎 第一歌集 『ひだりききの機械』

 
吉岡太郎の歌を読んでいると、希有な純粋さがあふれているようで胸打たれる。それは、あたかも宮沢賢治の世界に通じる悲しみや慈愛のようなものがあり、そこに感動しているのかもしれない。現実世界では、そういう無垢さを持っていることがある種の欠落のように現れることは避けようがない。この歌集は、吉岡太郎というイノセントな魂の苦難に満ちた遍歴の青春物語といえるかもしれない。
 
ごみ箱に天使の羽が捨ててありはねとからだを分別している  
すぐに花を殺す左手 君なんて元からいないと先生はいう  
新しい世界にいない君のためつくる六千万個の風鈴   
 
冒頭の六千万個の風鈴は短歌研究新人賞受賞作品である。この連作に登場するのはロボットらしい。ロボットは機械であり、そういう意味で生身の身体をあらかじめ喪失している。しかし、魂だけは与えられてこの現実世界が終わったあとの世に現れている、そこは死がない世界であり、ロボットである主体は無限に更新されながら、あてどなく浮遊しているように描かれている。壊れてしまえば、ゴミのように分別される存在は最初から失われた存在にすぎない。何か根源的なものが喪失された世界からこの歌集は始まっている。ここで、気になるのは二首目の「すぐに花を殺す左手」というフレーズだ。ここに生身の原罪意識を感じる。タイトルも「ひだりききの機械」。このロボットとしての主人公の姿が作者の原型のようにも思える。このロボットはさらに、混沌とした現実世界に戻されて、さまざまな苦難に遭遇することになる。
 
海建設予定地の跡地 自転車を押して皮膚へとしみこます風   
てのひらでずっと包んであげるからほらね小鳥はあたたかいまま   
 
 一首目、「海建設予定地の跡地」というフレーズは詩的である。ここではすでに「海」は喪失されたしまったものとして、空虚な「跡地」だけが提示されている。海は「青春」そのものの夢かもしれない。ここで「皮膚」は世界の異変を感じとっている。身体性をもつことで、この主体は現実世界のがわに組み入れられる。二首目、小鳥は瀕死の状態なのであろうか。その消えそうな命を「てのひら」で包み込むしぐさに弱い存在への優しさが溢れている。この歌集全体に通じるこの作者の「救済」へ祈りの姿のようでもある。
 
わしのした便のほのかなぬくもりがいつかは衆生(たみ)を救ふんやろうか
 
 
章に入ると、突然、関西弁で語る「わし」という一人称があらわれる。しかし、この主体はやはり、章のロボットの生まれ変わりのようである。ロボットは生身でないだけに排泄はしない、そういう意味では、ロボットだけの世界はある種の「浄土」でもあるといえないか。されに対して、二章の「わし」は糞便にまみれた「穢土」の世界をさまよっている。それは現実世界そのものでもあるわけだが、その中でやはりこの主体は一首目のように、世界を救済することを願っている。この世の汚濁のなかで衆生を救おうとする姿は宮沢賢治を彷彿とさせる。宮沢賢治が東北の農民社会のなかで悪戦苦闘したのに対し、この主体は現代の消費社会のなかで、圧倒的に無化されつつ危機に瀕している。そして、もっともリアリティをもって迫ってくるのが就職活動を描いた一連。
 
 朝冷えの中をスーツに着替えおり我が喪に服すような心地で  
 五十六億七千万次面接に落ちたのでもうだれもすくえません(弥勒菩薩
 
就職活動はまったく苦行に近い。試され、侮辱され、そして否定されてしまう。主体は、そんな現実社会のなかで、圧倒的な敗北感を味わい、打ちのめされる。それが二首目の歌のように語られるとき、この作者のなかに流れているのがやはり、救済の希求であるが、それほどおおげさなものではなく、なんらかの役に立つ存在でありたいというささやかな願いにすぎないのだろう。宮沢賢治が「でくのぼうとよばれ、(略)、そんな人に私はなりたい」と願ったように。この一連は現代社会の中で翻弄される若者たちの姿を代弁しているようで哀切な感じがする。歌集の奥行きはこういう部分から支えられている。
 
歌集の終盤では愛の世界に到達する。ここで、読者はようやくほっとできる仕掛けになっている。まったく手の込んだ構成の歌集だと感心してしまう。そこは菩薩的に救済された世界からはまだ遠いのだろうが、「ひとりの幸せ」が実現された世界としては光に満ちていて美しい。
 
もうなにもころさない手でいいからねわたし消えたりしないよずっと