眠らない島

短歌とあそぶ

「鱧と水仙」第42号  水仙2014

 
毎回、「鱧と水仙」を読むのを楽しみにしている。この度の第42号も期待を裏切らない、充実した内容であった。参集している同人が、それぞれ個性的であり、こなれた文体で丁寧に詠み込まれている作品群は完成度が高く、心地よく魅了された。
 
 巻頭を飾る小谷陽子「そののち時雨」三〇首は柔らかな詩情にあふれている。ありふれた見巡りの出来事や情景、また家族を題材にしつつ、そこに付きすぎず、離れすぎず、詩情を汲み上げている。一首から次の一首へのながれも、適度な余白があり読者を自然に引きよせてゆくリズム感がある。
 
 真夜中の救急外来たちまちにわが身はわれの外に置かるる     
 
 巻頭から、ただならぬ事態が作者の身に降りかかっている状況が示される。「わが身はわれの外に置かるる」とすることで、適度な自分との距離が保たれている。作者は、生身の作者から解放され現実に必要以上に縛られることなく、自由に現実と夢想の境界を遊び始める。
 
 葉に光る雨あがりの露指先にうつしてをればやさしきあそび
 
 特に内容に意味があるわけではない。ゆったりとした韻律によって流れているのはしっとりした雨の匂い。やわらかな言葉の運びが美しい。
 
 さやさやとくさかんむりのたのしさのあさの薬はふえゆくばかり
 
 高野豆腐はもどし方がむづかしい聖のごとくあなたは言へり
 
 一首目、服薬するが増えること事態は全く歓迎すべきことではないのに、その現実を少しずらして「たのしさ」と歌うことで大仰な悲壮感よりも、もっと深い生きることの悲哀が現実の底から引き出している。ひらかなを多用し、視覚的な圧迫感をはずしている。また「さやさやとくさかんむりの」というオノマトペも軽快さを生み、一首を重ぐるしさから救っているようだ。二首目の「高野」と「聖」の言葉遊びだがこのユーモアの生む余裕が読者をほっとさせてしまう。読者を歌の世界にかるがると引き込む見事な連作だった。このようにありふれた日常風景から詩情を立ち上げることは容易なことではない。作者の卓抜した技量を感じる連作だった。
 
  黒瀬珂瀾の「石油を嗅ぐ」は船舶に働く職場詠として迫力がある。
 
  かもめすでに去りたり揺るる桟橋に赤き発電機をわれは降ろせよ
 
 海という自然と、人の営みを骨太なタッチで切り取っている。字余りをあえて駆使して韻律が波打つように力強く響き、「われは降ろせよ」と呼びかけが躍動感を生んでいる。
 
小谷博泰の「バクの夢」。この世もあの世のも境目無く、自由に発想する遊び心あふれる世界が展開する。
 
 バラ園に咲いて静かな赤いバラ喫茶店には少女のうごく
 
 メドゥーサやバクが跋扈する小谷ワールドの世界は十分に楽しいが、そのなかに栞のように差し込まれた清楚な作品にも目がとまった。小谷のシャイな感覚を垣間見たようで嬉しくなる。
 
 近藤かすみ「点描」は、過ぎゆく日常の時間から、生活の充実感をすくい上げて、行き届いた連作だ。日々を丁寧に生きている人だと感じた。
 
  金曜の午後のこころをまんたんに油売りつつトラックがゆく
 
 平明な言葉の斡旋に、生活の核のようなものをささやかな至福感として優しくすくい上げている。こういうところに人々の「暮らし」の実体はあるのだなあと実感させられた。また、繊細な感覚の作品にも注目した。
 
  ね。と結び空気を少し落ち着ける罫線の白は冬のはじまり
 
  死ぬ日まで素数のよはひ幾たびを重ねむ 額あぢさゐのつぶつぶ
 
一首目、初句にインパクトがある。そしてその後の展開がいい。「空気を落ち着ける」という把握が巧いし、「罫線の白」への着目は透明感のある感覚が生きており、美しい歌に仕上げている。2首目。「素数のよはひ」として年齢の把握のしかたが卓抜である。素数と表現されることで、年齢という数字が持つ意味は、新鮮な時間に一瞬置き換わったように見える。
 
中津昌子「河口」は、被災地に取材した連作であり、意欲を感じた。
 
  北上川河口の夕景ひろびろとただのひとりも影を置かざり
 
この作品は、のびやかな風景のデッサンのなかにまぎれようもない喪失感が
流れれている。中津らしい美しい歌である。
 
 特集「与謝野晶子の一首・馬場あき子の一首」のエッセイも、それぞれ力
が入っていて読みごたえがあった。引用されている数々の歌を読むだけでも
二人の歌人の懐の深さに迷い込む。なかでも、今回の歌集が第24歌集とい
ということに驚きを禁じ得なかった。深化をやめない馬場あき子を読みつづ
けたい。