眠らない島

短歌とあそぶ

滝下恵子 第三歌集 『葡萄むらさき』

 
どこまでがしんどくなくてどこまでがしんどいといふのかちよつとしんどい  
 
 滝下恵子さんから、「葡萄むらさき」という美しい歌集をいただいた。次々と襲う病気と闘いながら、悲観的な印象とは程遠く、歌は闊達で自由自在である。どこか吹っ切れた歌いぶりに救われる思いがする。この歌集を読みながら、だれもが避けられぬ「老い」や「病」とどう付き合うのか、その苦難にありながら、精神の自由をどう維持するのかを読むものに問いかけてくる力を感じた。
 
 「病気」を題材に歌うと、それを不幸として人生的にどう受け止めていくのかという、自意識の不遇感が前面に出てしまいがちである。しかし、巻頭にあげた歌は、全く違う。「病」を自明のこととせずに、身体性の感覚として把握しようとしている。ここには鋭く研ぎ澄まされ抑制された言葉の力で、病という体の異変に真っ向から向かい合おうとする強靭な精神すら感じてしまう。こんな歌に出逢ったのは初めてだ。
 
ふやふやのティシュペーパー立ち上がり引かれないまま立ちつくしゐる
ゆつくりと老いるときありどどどどと老いる時あり 秋海棠よ 
 
 一首目、ティッシュペーパーのみを詠いながら、その不思議な立ち姿を見事に捉えている。いのちなき紙一枚ですら、何にも支えられずに立ちつくしている。なんと孤独で、けなげな姿であることか、一枚のティッシュペーパーから深い生の認識を掘り当てている。
二首目、自身の「老い」というものを生の変化の様相とらえ、動きある表現で活写している。生き生きとした「老い」の歌いぶりが圧巻である。そして「老い」とはこのようにくるものなのだろうという、リアルな感覚が伝わってくる。
 
くれなゐの椿が空を見上げをり土に落ちても目をみひらきて  
 
 この歌集では、作者は自身の身辺の事情を積極的には語らない。わずかな歌に家族が登場する程度である。作者は、そういった、外部の関係性よりも、自身の内面世界に視線を強く向けているようだ、その表現はあくまでも、具体的な事物を通して表現されるだけに印象が、鮮明である。ここに挙げた歌もその一つである。擬人法なのであるが、言葉が緊密に構成されているので、あたかも椿自身の意志が形象化されたような印象がある。もちろん、ここには作者の生に対する向き合い方が語られているわけである。そういう「意味」をどう表現するのか、ということにあくまでもこだわって作歌している作者に歌人としての心意気を感じる。
 
 歌集の中には、作者の幅広い文学や音楽、絵画や映画などから摂取された歌が散見する。それらは、作者の豊かな精神世界をうかがわせて、歌集を風通しのよいものにしている。また、社会への関心の強さにも注目した。どんな境遇にあっても常に、同時代への関心や批評精神をもつことは生易しいことではない。しかし、柔軟で自由な精神とたくましい想像力が人を生かしていることを痛感した。そして歌が、人を負の感情から救い、孤独を研ぎ澄ますひとつの可能性であることを示唆している。
 
 わたくしがゐない〈のぞみ〉は揖斐川を越えて濃尾平野に入る