眠らない島

短歌とあそぶ

岩切久美子 第二歌集 『湖西線』

 
 去年の冬、琵琶湖の野鳥センターを訪れて、忙しそうに泥を突いて、餌をあさっているコハクチョウを間近見ることができた。いきいきとして、躍動感があり見飽きなかった。それで今年も是非見に行きたいと思っていたところ、思わぬ大雪でなかなか行けず、やっと二月の下旬にいくことになった。今年は湖西道路を走って湖北へと巡るコース。前から湖西からみる琵琶湖に憧れていた。当日は、午前中はあいにくの曇り空だったが、ゆったりと銀色にかがやく琵琶湖の湖面が美しかった。
さて、帰ってから余韻に浸っていると、『塔』所属の岩切久美子さんから『湖西線』という歌集が届いたので、驚いてしまった。私としてはあまりに時機にかなっていた歌集だった。湖西の風景を、湖西地方に住んでいる人はどんなふうに毎日見て暮らしているのだろうかと、羨望を交えてぼんやりと追想に耽っていたところだった。歌集をひもとくと湖西の風景がおだやかな生活感に立って、しかも新鮮なタッチで詠まれており、美しい湖畔の風景とそこにある暮らしのある歌をいっきに読み進んだ。
 
 楝の花ほろほろ散りて昼静か漁港に舟はみな乾き居つ   
 風呂敷包みぽんと置きたる形して竹生島見ゆ六月の湖  
 梅雨空の深く垂れ込む菅浦にゆるく棹さす和舟がひとつ   
 
一首目、楝の花というから季節は夏。厳しい日差しが湖畔に降り注いで人影もない。そんな真夏の昼の静けさを「舟はみな乾き居つ」という的確な表現でデッサンしている。二首目、湖北に浮かぶ竹生島を「風呂敷包みぽんと置きたる形」という楽しい比喩で描いて見せた。三首目は、秘境で有名な「菅浦」を梅雨空を背景にして水墨画のようなタッチで描写している。こういう、湖畔の歌にはこの作者ならではの細やかな視線とやわらかな言葉の斡旋がいかされているように思う。
また、琵琶湖という風光明媚な風土によりかかるばかりでなく、なんでもない日常的な光景を実にうまく詠んでいる歌に出会えたのも楽しかった。
 
  掘り返され畝となりたる黒土が牛の鼻のごと陽にぬれている  
  軽トラック去りたる後の竹林にひっそり落ちている軍手片方   
  無花果の端に大粒の雨が落ち裏山どっと量感を増す   
 
 一首目、鋤き返されたばかりの土の湿った匂いが「牛の鼻のごと」という動物の体温たっぷりの比喩によって喚起されて、泥臭い春の香りがいっきに立ち上がる。二首目、竹林に落ちている軍手を発見することで、ついさっきまでその場所で働いていた人の息遣いや、時間の移ろいが実感をともなって表現に定着している。この歌は、目立った修辞は何一つないが、平明な描写によってものの存在感を作り出しているのが見事である。また、三首目、無花果の大きな葉を叩きつける大粒の雨の気配と空気感。そこからひろく大気の湿り気を引き出し、「裏山どっと量感が増す」と大きく景を把握してゆく展開が見事である。このあたりの歌は、小手先の修辞に終始せず、作者の実感に即した言葉から生まれている。そのため、読みながら自然に作者と同じ匂いや湿度のなかにいるようで、共感度が高い。
 
  昔話のように秋の陽入り来たりいつか一人になる二人の卓   
  ゆっくりと豆腐が沈み行くように癌とう言葉受けとめて坐す  
 
 ここに引いた二首からは、家族の病気、境遇の変化が読み取れる。後書きにあるように、この歌集に収録された歌が詠まれた時期というのは作者にとっては、困難な出来事が続いた時期であったようだ。それは、だれもが避けようなく迎える「老い」によってもたらされものでる。そういう意味では当人にとっては一回性のものではあるが、意地悪にみれば誰しも通過する同じドラマでもある。老いによって否応なく選択を迫られる、生活の場の喪失、そして家族や自身の病気による不安や、孤独感。しかし、この作者はそういう自身の心情をよく抑制して、読者に負担を掛けないよう過剰にならないように細やかな心配りをしている。
 そうした自己抑制の優れた作者であるから、透徹した視線は、自身の内面ばかりでなく、周囲の情景をみる静かな態度にもよく貫かれている。景を詠んだ歌には、鋭く研ぎ澄まされた知覚によって、切り取られた事物をとおしてこの作者の精神世界がしずかに息づいている。そんな歌が、しぶい輝きを放っており歌集に奥行きと重みをもたらしているように思える。
 
深夜駆ける湖西道路わきに長距離トラック深々と眠る