眠らない島

短歌とあそぶ

山崎聡子 第一歌集 『手のひらの花火』

 
山崎聡子が「未来短歌会」に入会し、私たちの加藤治郎選歌欄に加わったのは去年の暮れのことだった。『未来』誌上で山崎の歌を初めて読んだとき、軽い衝撃があった。しなやかな感情の流露と、力を抜いた言葉の構成にまねのできない確かな骨格を感じることができた。その直後に本年度、現代短歌新人賞したというニュースがはいり、「未来」にまた新たな才能を迎えたことを幸運に感じたことだった。
 
『手のひらの花火』を読んでいると不思議な心地よさを感じてしまう。独特のやわらかな肌ざわりのある世界、のびやかな感覚にふれて体の筋が伸びるような気持ちよさを味わう。山崎の文体は、まだ完成はされていないし、言葉の斡旋も不安定さは隠しきれない。しかし、山崎の描こうとする世界は、このゆるい文体とよいバランスを保っているように思う。この歌集には、さまざまなストーリーが仕掛けてあり、読むのに飽きさせない工夫がある。中学や高校時代の思い出や、留学生活。また、戦争からのエピソード。しかし、そういう仕掛を取り払って歌集を読むと、この作者の資質がよく見えてくるように思う。
 
  慣れないことに囲まれ生きる日々だから正しい位置にしまう温度計   
  両足を日向にぱらんと投げ打って絵本ほんとのはじめから読む     
 
 一首目、この歌集の原点にあるものを示唆しているように思う。「慣れないことに囲まれ生きる日々」とはまさに青春の様相をいうのであろう。現実は常に不確定なものとして作者の前に立ち現れる。殊に青春期にあるとき、世界は常に更新され続けるような眩暈を感じさせられる。そのように様々に変化する世界は、ひとつの「温度計」によって感知されるという。この歌集全体に漂っている湿度のこもった空気感。この作者のもっている世界への感度を支えるために「正しい位置」に「温度計」は内蔵されなければならない。そこから、世界がはじめて、記述されるのだから。二首目も、この作者の歌いだす姿勢をよく表しているように思える。「両足を日向にばらんと投げ打って」というフレーズには、この作者の世界へのしなやかな親和性があり、下句では幼年時代から流れる、さまざまな記憶が薫り立つような切なさをもって回想されてゆく。その追憶の時間は互いに交錯し、変化しながらストーリー性を編み出して行く。
 
  中学で死んだ高山君のことを思うときこれが記憶の速度とおもう  
  
  理科室のホルマリンに似た甘い香が夏の土から匂い立つなり  
 
 一首目、「高山君」という固有名詞によって親密感が生まれ、読者との共有関係が生まれる。「記憶の速度」というフレーズも新鮮だ。この作者にとって「記憶」とは、過ぎ去った過去ではなく、体感をもっていきいきと現在の作者の身体のなかに存在しているようだ。それは二首目にも共通している。「夏の土」の匂いが「理科室のホルマリン」を誘い出している。この作者の記憶は常に、「匂い」や「湿度」によってその手触りを与えられてゆく。世界に知的に迫るのではなく、感覚的に構成された時空間に読者は自然に寄り添うことになる。そのしなやかな視線は、自身を含めた人物全般に及んでいよう。
 
  雨の日のひとのにおいで満ちたバスみんながもろい両膝をもつ 
 
  ゲームセンターの青い光のなかにいてきれいなままで死ぬことを言う  
  肺深く暗闇をもつ君といて手持ち花火はたかく掲げよ   
 
 一首目、バスのなかは雨の日の湿気が満ちており、「もろい膝」をもつ人々は植物のように生気をはき出している光景は、どこか官能的でもある。そして、作者と世界との関係はどこかしっとりと親しみに満ちて優しい。二首目は「おとうと」という無垢な存在を情愛で包みながら美しく歌い上げている。三首目は、「君」との濃密な時間を「肺深く暗闇を持つ」という奥行きのある表現で形象化し、「花火」のはかなさに象徴する。こうした歌を読むとき、読者は、今を生きている若者の息づかいを感じとり、その生の瞬間のはかなさを追体験しているようだ。
 
 歌集全体をとおして、言葉に負荷をかけることなく、粗削りな口語体で生き生きとした雰囲気を立ち上げている。どこにでもありふれた風景が、軽いタッチで掬い取られるとき、新鮮な驚きとさやわかな詩情を感じる。それは紛れもない青春性を孕んでおり、歌集には若々しい情感があふれている。そこが多くの読者へ通路が開かれている要因のように思う。今後、「未来」の中で切磋琢磨しながら歌風も変化していくことだろう。どうかわっていくのか、目が離せない新人である。
 
 廃車場の暗がりを抜けきらきらと目にもまばゆき神社へ、歩く