眠らない島

短歌とあそぶ

藤田千鶴 第二歌集 『白へ』

 
藤田千鶴さんの第二歌集『白へ』は、童話と短歌とのコラボレーションからなる。歌集に散文を収録するとどうしても、散文に引っ張られて、歌の存在感が薄れてしまいがちになる。散文の造形力はそれだけ強力といえる。散文が優れていればそれだけ、歌にも力が要求される。
この歌集では二つの世界がうまく力を出し合って、バランスをとっているように思える。収録されている四つの童話はどれも独立した優れた作品である。一人の少女と動物、家族との交流をとおして、生きることや「死」ということの意味を語っている。子供向けの文体には無駄がなく、こびへつらう冗漫さがない。適度な緩急があり、構成がよく練られている。特に主人公の心理が丁寧に描かれることで読者の共感を呼び、冒頭から最後までひきつける力がある。また、小道具の使い方もとても有効的である。そのこまやかなデッサン力によって、場面がリアルに立ち上がてくる。私も、下手な童話を何年か書いてきただけに、この筆力には舌を巻いてしまった。そして、この作者の純真な魂に触れて心を洗われるおもいがした。
 
 そろそろ歌集について語りたい。しかし、やはりこの作者の資質が童話によく現れているので、そこに注目してしまう。童話が成功する鍵は、冒頭の一文だとよく言われる。間髪をいれずに、こどもの関心を鷲掴みにする魔法の一行。そこから物語は自然に始まる。藤田さんの歌にも、そんな魅力があるように思える。二〇〇八年歌壇賞次席作品の「冷たい虎」はリアルタイムで読んだ。あのときの感動を今も覚えている。
 
 葉が枝を離れるようにつぎつぎとカヌーは岸をあとにしてゆく
まっすぐに越えてゆく波うしろから「次は大きい」という声がする
うごくもの流れるものの健やかさ川の蛇行に身体をあわす
 
冒頭からいきなり川下りの舟の中に引きずりこまれていた。水の勢い、川をおおう湿り気、そして体の躍動する悦び。なんでカヌーなのか、考える隙を与えさせないスピード感がある。カヤックの川下り体験をしているだけなのに、事柄を並べるのではなく、あふれるような生命感が造形されている。
 
涼しくて暗いひととき過ぎゆきてあなたは橋であったと思う
あたたかい川辺の石に舟を留め呼吸している私も舟も
 
構成もよく練られており、動と静のバランスが絶妙である。文体はあくまでも明晰でありながら、陰翳をつけることも忘れていない。
 
艶やかに私の舟の下をゆく川は大きな冷たい虎だ  
 
そしてタイトルが「冷たい虎」。川を「虎」に見立てるこの感覚はどこかファンタジックな想像力をかんじさせて異色であった。こういう自在な空間造形力はこの作者のもっているもっとも優れた資質といえる気がする。歌集全般をみてもそれはあてはる。
白くまの薄汚れているあの感じ貨車のひとつに雪は残りて  
高いなぁ高いねぇと狛犬の上顎見上げて鳥居をくぐる
 ああなんてすっぱい夕焼けどの家の屋根にもかっちりアンテナが立ち
 
一首目、雪を被っている貨車が止まっている。貨車だけにどこかうらさびいしい感じがする。その場の雰囲気を「白くまの薄汚れている」姿に見立てる。これはどちらからの喩でも交換できるしどこか童話的な郷愁を感じもする。二首目は、好きな歌だった。鳥居の傍には狛犬が据えてあるわけだが、その狛犬の上顎という細部に注目することで、神社の入口付近の雰囲気が伝わってくる。上の句のセリフのリフレインもどこか不思議な空気感があり、神社という神域に通じる空間をうまく構成している。三首目は「夕焼け」を「すっぱい」と形容することがまず注目される。それはどことなく寂しい夕暮れの感じであろう。下の句の、「かっちりアンテナが立ち」と展開することで、自分がその風景からどこか疎外感を感じているような浮遊感が流れている。下町の日暮れの情感を伝えている。
 
ムスカリの思い思いに伸びる春 もう長い約束はできない 
扇屋を知りませんかと尋ねられ扇屋へいく道のない道を  
錆びし扉(と)の閉まる音してトラックが何かを置いて去りゆくところ
 
藤田さんの歌には、童話に通じる物語の始まりのような雰囲気がある。一首目、ムスカリが伸びてゆく春、それは新しい季節への期待感かと思わせておきながら、下の句の意外な感慨。ここには、歌の背景にある複雑な事情を思わせて、奥に広がる深さが見えてくる。二首目の「扇屋」という名詞が利いている。「道のない道」をゆけば、果たしてどんな幻想的な風景が広がるのだろうか。三首目、斎藤茂吉の歌を思わせるようなおかしみがある。なんでもない風景だが「トラックが何かを置いて」という省略した表現が時間のひろがりを作っている。さりげなくだれかの手によって空間に置いていかれるもの、それはどこか恩寵のような神聖さがあり、読むものを慰藉する魅力がある。日常の空間から、ちょっとした異次元の世界へ誘い込むような不思議さ。それは作者自身の遠いものへの憧れのかたちなのかもしれない。
 
喉仏に触れてこれは骨なのときけば神様だよと言いたり