眠らない島

短歌とあそぶ

澤村斉美 第二歌集『 galley  ガレー』

 
 澤村斉美の第二歌集「galley」を読んだ。
小ぶりな紙面に、三首組で歌がぎっしり埋まっている。第一歌集「夏鴉」は大判、一ページ二首組の装丁でゆったりとした余白があった。それを排除したところに作者の短歌観の多少なりとも変化があるのだろう。
 
  草、といふ風情でわれの歩きゆくこの雑踏をのちに思はむ
  労働を何に喩えへむゑのころの群落さやぐやうに見えるけど
  労働力を売りに行かむかさみどりのシャツで背中を薄く包んで  
  ガレー船とゲラの語源はgalleyとぞ 波の上なる労働を思ふ   
 
この歌集の題名の「galley」はガレー船のことで、人力で櫂を漕いで進む船のことであるらしい。学生の境涯から、就職をして自らを労働者として捉えるところから時間は流れはじめる。自分自身も社会のなかの一人の構成員にすぎない。自分が社会で働くことの意味を常に問い続ける。それは、逆にみれば、自分自身を無化させようとする大きな力への静かな抵抗でもあるのだろう。一首目、「民草」という言葉があるように、われわれは、巨大な資本主義社会の中では一本の雑草にすぎないという認識、二首目、三首目にも同じ発想が見える。四首目には新聞の校閲者としての独特の捉え方がある。この歌集の題名に通じていくテーマが提示されている。このように自分が直面している現実を近視眼的ではなく、歴史的観点からとらえようとする発想にこの歌集の広がりが生まれている。
 
歌集には、職場詠が多く収録されていて興味深かった。職場詠は往々にして切実感を前面に出し過ぎて、役割のなかの限られた自画像を作りだしてしまいがちになる。しかし、この作者の職場詠はそうはなっていない。
 
うどん食べてゐる間に死者の数は増えゲラにあたらしき数字が入る
遺は死より若干の人らしさありといふ意見がありて「遺体」と記す
われもいつしか骨と呼ばれむひしひしと字を読み続けし眼も失ひて  
 
新聞社の校閲という役職をとおして、職務そのものはもちろんのこと、現実社会への視点や、その職務を背負っている自分自身の深い感情を引き出すことに成功している。新聞の紙面には日常的に「死」が溢れている。一首目、自分の時間と、自分が関わることのできない「死」というものとを現実の時間のなかで交差させている。二首目、「死」をめぐる言葉の意味の軽重について配慮される職場の雰囲気を伝えていてリアルである。そして、三首目、職場詠からはみだしてゆく意識がある。「いつしか骨と呼ばれむ」と自分自身の未来への予見があり、そこには不安が漂い、働く自分の中の深い情感を捕まえている。
 
こういう認識はこの作者の世界への冷静な向き合い方によるものであろう。夫にたいしても、家族にたいしても、つねに一歩さがったところから言葉を発している。関係のなかにある存在ということにおいて、既成の意識ではなく、いつも本質的な感情によって人との関係を結ぼうとする。
 
夫よけふも壊れずに仕事してゐるか ゲラを広げてしばし思へり 
君の敵のウチカワのことをなぜか思ふウチカワが勝てばいいと思へり  
啄木はわが子ならぬに「ほんたうにあいつはばかだ」と言ふに飽くなし  
骨を見たあとの視界に骨色の雨は家族をぬらしつつ降る  
 
一首目、二首目、夫を思う心情が距離感をもって語られている。相聞歌にあたるのであろうが、この余裕あるふるまいについ笑いを誘う。特に二首目などは、夫の愚痴を聞かされている日々の時間のなかで、見てもいない相手に共感を抱いてしまう不可解な心理をみごとに掬い取っていて圧巻である。その覚めた物言いは、三首目の文学上の人物である「啄木」にも容赦なく向けられる。このあたりの歌は、人間関係を独特の空気感をもって把握しており、歌集の骨太な印象に奉仕しているように思える。
 
それは自分自身への意識にも反映されており、広がりも奥行きもある意識の網の目を張り巡らしている様相として歌集が構成されている。そういう意識のもちようを作者はいつから獲得したのであろうか。確かに第一歌集「夏鴉」でも、自意識を描くことに終始せずに、「お金」や「研究」をとおして多様な題材に向かう傾向はあった。東日本大震災後、時代はますます閉塞感を強めているが、この作者の意識はそういう時代のなかで生きていく存在に意味をあたえようと、より自由な文体を獲得してきたように思える。言葉の緊密感よりは、粘り強さ、自在さを選び取っている。幅の広い題材をとりこむことで、ひとりの若者が一つの時代の中で生きている姿を生き生きと伝えている。もちろんこの作者持ち前の、巧みな比喩や、繊細な感覚は以前のとおり健全である。
 
冬鳥の過ぎりし窓のひとところ皿一枚ほど暮れのこりたり   
この人崖から落ちるかもしれぬ吊り皮にぎりしめて眠れる   
 
一首目、冬の夕暮れの湿ったさみしい感じを「皿一枚」の比喩でよく捉えている。二首目は通勤風景のショットであろうか、上の句のシャープな切り口が冴えている。
 
いくらでも巧く歌える作者であるのが羨ましい。しかし、あえて言葉に負荷を掛けずに、平明な言葉で抒情と理知の間でよくバランスをとっている。諧謔味も加わって自在な歌いぶりには既に成熟した世界があらわれているようだ。最後に、大好きなお酒の銘柄が出てきたのであげておく。
 
  なァ呉春 あなたの闇の梅よりも特吟「呉春」が好きな日もある