眠らない島

短歌とあそぶ

田村広志 第五歌集 『漠底』

 
歌うとは持ち続くこと満身に戦死の親父を抱きて生きる   
 
「漠底」は作者の第五歌集。田村広志は昭和十一年生まれ。幼年時代を戦争期に過ごし、父を沖縄戦で亡くしている。この問題を主題として長く歌い継いできた歌人である。似たような経歴をもつ人は、ほかにもいるのだろうが、このように長期にわたって歴史や現実世界の負の側面に肉薄しながら歌を紡いできたことの重さに圧倒される思いがする。作者の後書きを引用する。
 
ある程度時間が過ぎてしまうとどんな大災害も、それに出会ってしまった人たち以外は忘れます。それが日常というものでしょう。けれど、社会的関係性を内包せずには歌う意味を見出せない。なぜ歌うのか、まっとう過ぎる問いですが、しかし私の歌はそこを離れては存在しません。
 
父を戦争で亡くしたことが、作者の生を決定的に運命づけている。「社会」と切り離して自分の生の意味を考えることはできない。「世界」の痛みは自身の痛みとしてある。父親を奪った国家に対する執拗な糾弾は作者にとっての自己回復の過程であるのかもしれない。しかし、それは決して、成就されることはない道行きでもある。なぜなら、個人を傷つけない社会はあり得ない。ましてや、肉親を奪った国家と和解することはありえないだろう。
 
遺髪遺爪なく骨壺の底に白く光っていた紙戒名ちむぐりさ(肝くるし)
                                    *沖縄方言
作者は繰り返し戦死した父を歌う。父恋の歌はそのまま、国家犯罪への糾弾へと繋がる。戦争犯罪にかかわる731部隊への追跡、シベリア抑留者の悲惨、成田三里塚闘争からはじまって羽田空港ハブ化とという国家政策の矛盾。そして、2011年年の東日本大震災によって引き起こされた放射能汚染の現状。あらゆる問題を自らの痛みとして受け止め、目をそらさない。こうした、歌がスローガン的に硬直しないのは、あくまでも自身の体の痛みの場所から言葉が繰り出されているからだろう。この作者は、肉感的に社会と繋がる感性を備えているように思える。
 
日の夜の震災放射能報道をしっかりと視よ非力の力      
 
「しっかりと視よ」という命令形は自身に向けられているのだろうが、読者にも必然として突き刺してくる。言葉によって言い逃れのできない空間に追い詰められることになる。この歌集を読むものの姿勢を問われている気がする。そのため歌集全体のトーンはやや重苦しさにかたむきがちではある。
 
ところで「漠底」という荒れ野では、野に咲く花のような歌に出会うこともできる。
 
長いながい貨車すぎ春の鉄橋は利根川の水の面のひかり    
おとめらが携帯電話しつつ行くやわらやわらの春キャベツ声   
 
一首目、光溢れる利根川を渡って行く長い貨車の音がのびやかに春空にひびいている。二首目、少女たちの声を「春キャベツ」に喩えるユーモアが楽しい。少女たちの若さをまぶしく感受していている。また、母の歌も心に残る。
 
せりよもぎたけのこ春菜春ごはん母の居た日のその彩りよ 
 
 
作者の女性を見る目はエロスに満ちていて生命感に溢れている。こうした官能性が意外に作者の本領なのかもしれない。巻頭に挙げた歌を読み返すとそれがわかる。長く戦争を父を歌い続ける心情の高い体温にこの作者の世界を支えている官能性の一面をみる思いがする。
 
うないおとめうなじ涼しくふわり来て節電電車まなこの悦び
 
  
最後に、戦争によって喪失させられた少年像へのあこがれのような美しい一首。思うに、この少年は最初から作者の無垢な魂の森に生き続けているのだろう。
 
 
  椎の実を拾って歩く森ふところ拾いつくして少年に逢う