眠らない島

短歌とあそぶ

天道なお 第一歌集「NR」

 
天道なお第一歌集「NR」が出版された。あとがきによると、作者は十八歳のときに寺山修司の短歌に出会い、作歌を始めている。その後、早稲田大学に入学。在学中は、水原紫苑のゼミで研鑽をつみ、学生短歌会で活躍。二〇〇三年には「未来」に入会し、現在に到っている。十分すぎる経歴からすると、第一歌集としては遅いといっていいかもしれない。それだけに作者にとっては、この歌集にかける思いは強いものがあるだろう。
 
バスタブに白き石鹸滑り落ち深まる夜の遺骨であるよ
 
バスタブに滑り落ちた石鹸は夜の遺骨であるという。一日の終わりには必ず夜があり、そしてその夜も終わっていく。夜の深みに遺骨のように白く光る石鹸。そう感受する背景には青春期特有の喪失感や断絶感がある。生きることは日々何かを失うことであり、青春の高揚感や至福感を自ら断念することで孤独で静謐な時間が担保される。深まる夜に身をひたし、まるで遺骨のようにおきざりにされている魂がある。蘇生への祈りのような美しい歌である。
 
本日ハ快晴デアル絶望のうわずみにすら思えるよ 空
 
ここにも、行き場のない宙づり感が漂っている。「絶望」の内実は明確ではないが、その「絶望」ですら自分のものではなく、その「うわずみ」に漂うような浮遊感がリアルに詠われている。天道の歌の世界を貫いているのは、こうした適度に抑制された自意識から生まれる硬質な抒情である。そこでは、生の実体との乖離感が浮かび上がってくる。
 
さみどりの真中でふたり人間のかたちを成して触れ合っていること
緩慢な別離もあるときみは言うフェリーゆるりと岩壁離れる
 
一首目、「さみどりの真中」という表現は輝かしい若さを連想させるが、そこにいるふたりは、仮に「人間のかたち」をしているだけであり、どこかこの世界とは違うところに属しているようにぎこちない。二首目の歌も、おそらくは「君」とは恋人を指すと思われるが、その恋人に「緩慢な別れ」をささやかせている。岩壁を離れるフェリーを見送る視線には、恋愛のさなかにあって、その終末を見ているような覚めた感覚が伝わってくる。
 
こうしてみると歌集全体には、現実との齟齬感や不全感はあるのだが、そういう自意識をストレートに歌い上げるのではなくて、ちがうアングルから見直すクリアな理知の力を感じる。それは歌集半ばから展開される職場詠に如実に表れてくる。
 
白シャツの衿尖らせて帰宅せり真水に浸しただ眠るべし
すみやかに感情などは折り畳み折り畳んだのち受話器を取りぬ
歳月が彫りし容貌 (かお )なり地下鉄の車窓にぼうと映るわたくし
 
学生から社会人へと作者の境遇は移り変わり、過酷な現実が容赦なく若い感性を疲労させてゆく。一首目、まだ社会人になって間もないころだろうか。「白シャツの衿尖らせて」という表現から、緊張した社会人としての一日が推測できる。だが、心情を「白シャツ」に託すことで、過剰に主張することをコントロールしている。二首目は、クレームの電話を受ける前の心理の的確なデッサン。三首目、地下鉄の窓に映る自分の顔に、社会人として過ごした歳月の痕跡を見ている。この自分への距離感は、大仰な素振りをさけ、あくまでも冷静に処して、感傷には安易にいかない。母親となり、なおも働く自分を次のように歌う。
 
ひとむれのママたちの笑みかわしつつ半透明のわれが道行く
手洗いの個室で再び母となり乳房を搾るわれどんな顔
 
母親でありキャリアウーマンでもあろうとする自分自身を「半透明のわれ」というとき、役割に引き裂かれていく自意識の揺れはまぎれもない。二首目は過酷な場面だ。便器に母乳を搾りだしているなんとも悲痛な行為でありながら、なおも「われどんな顔」と見返す自身への視線は冷徹でさえある。こういった現実性の濃厚な歌からは修辞はそぎ落とされ、読む方にもタイトな印象を与えてしまう。しかし、この作者の透徹した視線は、ドライなばかりではない。
 
行儀よくビル立ち並び刃をあてたなら美しいはずの断面
彗星のごとくその夜タクシーはあまた光を零しつつゆく
 
見慣れている都市風景。一首目はそのビル群に刃を当てるというシュールな発想から無機的な美が発見されている。三句目から四句目にかけての句跨がりが捻れ感を生み、ビルを肉体のように錯覚させている。また、二首目は、夜の闇をテールランプを灯して流れていくタクシーの明かりがみずみずしい。
 
この一冊の歌集に収められている歌数は二五〇首。そこに一〇年近い歳月が流れている。そのため、生活や境遇の変化によって歌に変容があり、多様な方向性を孕んでいる。
例えば、歌集の最後には、我が子を詠んだ歌が散見する。
 
おさなごは水琴窟かしろたえの朝のミルクに喉ふるわせて
コットンのねむりの中でおさなごがやさしく握る虹の先っぽ
 
幼い命への手放しの愛情が美しい比喩に託されて流れている。そして、やがて離職。歌集最後尾には、今後の生活を見据えて詠まれた歌が登場する。
 
カヌーゆくごとくカートを巡らせてよく生きるため食べ物を購う
 
こうした、長い時間での生活の変化が歌集にいささか急ぎ足で、混沌とした印象を与えていることも否めない。しかし、もとより現実の世界は流動的であり、その現実に開かれていることはこの歌集の可能性でもあると思う。天道なおはこれから先、どのような境遇にあろうと、後戻りせず、詠うことでさらに新しい地平を切り開いていくことであろう。
 
山間部および都市部はおよそ雨、NR (ノーリターン )とあるホワイトボード