眠らない島

短歌とあそぶ

浅羽佐和子  第一歌集 『いつも空をみて』

 
 浅羽佐和子は『未來』加藤治郎選歌欄での仲間である。2009年に未來年間賞に輝き、独自な現実主義的な歌風は「未來」の本流かとも思える。その言葉は、やわらかい口語体でありながら、自身の生な現実の細部に密着するような強さとしなやかさを備え、現代の社会の一面を力強く、ひりひりと痛みをもって描きあげている。毎月、目を通さずにはいられない作品群である。
 
  ぐいいっとナイフいれたら私からゼリーのような種あふれくる  
 
 浅羽佐和子の歌はナイフのようだ。この歌のように自分の内面を切りつける。するとその切り口からまだ動いて揺れている感情が吹き出してくる。それがこの歌の「ゼリーのような種」なんだろう。自分のなかに渦巻く感情のその美醜に関わらず、それを短歌に移し替えてゆく。そうすることで、不確かでしかない自分の内面に言葉を与えている。
 
浅羽の歌集に繰り出してくる歌のモチーフは作者自身の感情なのだが、それはある時間のなかでまとまってくる人生感慨のようなものではなく、一刻一刻変化してゆく現実のなかで葛藤してやまない感情の起伏でもある。いわゆる感情の襞とでもいっていいのか。そういったリアルな内面をごまかさず掘り起こし、言葉につづることで、現実の実相に迫り、生きることの意味を執拗に問いかけてくる。浅羽佐和子 第一歌集「いつも空をみて」には、まっすぐな潔さがあるように思う。巻頭に引いた歌は、歌集のなかの冒頭部分から引いた。この作者の資質や、作歌姿勢が一首に現れているようだ。
 
歌集の構成は、三章の構成であり、Ⅱ章目からは子供の存在が歌に大きな比重を掛かけてくる。作者にとっての子供の存在は、現実の場面を大きく転換するファクターとなる。
 
  ほんの少し水を含めば透き通る氷砂糖のような毎日    
  届かない祈りのような朝がきて自販機が淹れるぬるいコーヒー   
  わたしという不確かなものに「どうしたい?」丁寧に丁寧に問い詰めら  れて
  混んでいる電車で私のとなりだけ空いてるような不安かかえて   
 
章からいくつか歌を引いた。一首目、「透き通る氷砂糖のような毎日」とは、現実感の希薄さをいうのだろうか。ここではまだ、現実がまだ遠い。二首目は美しい歌だ。現実のなかでの不全感が漂っている。下句の具象が現代社会を生きる若者の浮遊感を上手く具象で捉えている。さて、三首目からはこの作者特有の表現が流れ出しているように思う。三首目は実に率直に自分を見つめ、語っている。
 作者の生きる上での主題はこの「どうしたい?」問いにあるのではないかと思われる。作者の心のなかにいつも聞こえている声なのだろう。そうなると、四首目のように、自分だけがいるはずの処から離れて取り残されているような不安が浮き上がってくる。この作者のなかには、現実の自分はあるべき場所からずれてしまっているという自己同一性への不信がいつもあって、その不安から逃れ切れない意識が歌に貼り付いている。
 
章、章になると、更にそういう不安が現実の関係性のなかで浮き彫りにされていく。ここに丹念に描かれているのは、やはり仕事と子供を持つ女性が日々向き合わされる苦悩であろう。それをこれでもかというまで、自分の内面に入り込み、葛藤と向き合い、今までにはない迫真的な表現を獲得している。
 
 白糸のような乳にて私もこの子をくるんでしまうだろうか    
 真夜中のコンビニに行きたい。まぶしすぎる他人の光にまじっていたい 
 スプーンを何度もとばすスプーンを何度もひろう たぶん明日も 
 
この作者に一貫しているのは、わが子に対する冷静な距離の取り方である。あいまいな「母性」を振りかざすこともない。存在への一切の自明性を注意深く疑っている。一人の独立した存在としてわが子にも向き合おうとしたとき、一首目のような疑念がわいてくる。女であることの身体感覚で誤魔化さず、むしろゼロから親子という関係を築き上げようとする理知的な意志が見て取れる。それは自分自身もなんら役割的な意味を持たされない存在として、自由に生きたいという本来の願いでもある。その思いが二首目に表れている。「他人のひかり」にまじることで、自分もだれかにとっての他人としてあらわれる。そこに自由を渇望しているこころがある。
 
「家族の絆」は翻すと「係累」「絆し」であり、その束縛感にだれしも重さを感じないわけにはいかない。いくら「家族の絆」を求めても、その日常の息苦しさに家族を呪詛するのは男女を問わず、だれのこころにも体験されているはずだ。三首目にその日常の退屈さがありありと具体化され詠われている。
 
  昇進の見送り理由を幼子とするぼろ布のような私   
  私のキャリアをどうしてくれるのと考えたってあふれる乳汁   
  仕事中だけはあらゆる不安からのがれられるの、どうしようもない  
 
「仕事をもつ女性」と一言ではいえない。この作者にとっての仕事は自己実現においてかなり大きな領域を占めている。職場に必要とされている人材としての作者を、また必要としている「幼子」の存在。「私」の自意識はその二つの間で切り裂かれ、傷ついている。現実のすべてはここから始まってもいるのだ。これほどまでではないにしても、同じような道を歩んできた私自身、こういう歌を読むと、記憶のなかに封じていた悲鳴が反響しているようで苦しいほどであった。
 
 我が子がいて私がいて母がいて祖母がいてたどってもたどっても独り 
 あなたがいてあなたがいてくれるあなたが思ってもいないほどあたたかい
 
 現実のなかで苦しむのは、どうしたら本来的な「つながり」を持つことができるのかという願いを強く持っているからだ。人としてまた、家族として身近な人とわかり合いたいという希求。しかし、育児をし、家事をこなしても、ほんとうに繋がっているのかどうかは分からない。むしろ、母も祖母も自分のように、独りだったのではないかという思いがやってくる。
 
 しかし、二首目のように、ふと一緒にいることのぬくもりを無条件に感じてしまう至福の瞬間もある。こうやって何度も何度も問い返される時間そのものが「家族」なのではないだろうか。「完璧な家族」があるのではなく、積み上げられていく関係のなかに一瞬立ち現れてくるものなのだろう。つくづく、生きるのは切ないことだなと感じさせられてしまった。
 
この作者の、人とともに生きることへ願望が、歌集にいつも見えているあかるい「空」の青さであるようだ。
 
  ヤクルトの小さな容器を積んでゆく ここまでいったら空だよ、ママ 
 「ママうちにかえろう」ってただ手をつなぐために私はずっとここにいる