眠らない島

短歌とあそぶ

服部真里子 第一歌集 『行け広野へと』

 
 服部真里子さんから待望の第一歌集が届いた。掌に載るほどのかわいらしいサイズ。装丁にも目を奪われた。緑と赤に縁取られた額縁のなかに金色の挿絵が美しい。まるでクリスマスカードのようだなと思ったものだった。そして作品は装丁をしのぐ美しさである。しばらくこの歌集を手元から話すことはできなかった。隅々まで気持ちが行き届いた歌集を何度読み返したことか。そして、今、やはりこれは世界の祝福のようなクリスマスカードそのものだったなと改めて思いを深くしている。
 
  音もなく道に降る雪眼窩とは神の親指の痕だというね    
 
最初にこの歌を読んだとき、「神の親指の痕」を巧みな喩として読んでいた。しかし今回、歌集となってまとまった世界として読み通すことで、この作者にとっての「神」が単なる修辞として使われているのではなく、表現の次元を越えた根源的な存在であることを知り、深い感銘を受けた。眼窩とは眼球の収まっている窪みをいうが、それを「神の親指の痕」ということで、視界に映る世界のすべてが神の摂理によって統べられていることを暗示している。世界をそうした理性の目で組み替えるとき、見過ごしていた風景が一瞬にして奇跡的な美しい表情に変わる。この歌集を読んでいてそうした知的な感覚の新鮮さに出逢い、幸福な気持ちを味わった。
 
  煌々と明るいこともまた駅のひとつの美質として冬の雨     
 
この歌も好きな歌だ。駅の明るさを知的な抒情でとらえ、あらためてその美しさを教えてくれる。こうした「神様の親指の痕」からあらたに拓かれる認識や情景が詩的な言葉に刻まれおり、頁をめくるごとに知的な興奮をも誘われてしまった。
 
  指掛けて靴をそろえる一瞬のうつくしい世界の氷づけ  
  草刈りののちのしずもり たましいの比喩がおおきな鳥であること
   ポケットのひとつもない服装をしてしんとあなたの火の前に立つ
 
 一首目、靴を脱ぐ仕草が丁寧に描かれたのち、うつくしい世界が一瞬にして結晶する。旧約聖書にあるように、靴を脱ぐとは、神への真摯な信仰の証しであるとされる。神を受け入れたとき、その恩寵のように世界はその美しさを垣間見させてくれる。それと似たような靴を脱ぐというほんのささいな行為から世界の秘密の入り口を発見したような歓びの瞬間。二首目の「草刈り」も旧約聖書から採られた言葉のように思う。草を刈られたあとの静謐な世界。神の手によって清められた魂がここにある。三首目の「あなた」はまさに神の存在そのもののようにも思われる。「ポケットのひとつもない服装」とは無償の神への愛の象徴として読める。そういう内面性をこのようなやわらかな言葉で表現することで、一首の歌としても詩情を立ち上げることに成功している。この作者の高く豊かな精神が世界を奥行きのある局面として再編して見せてくれる。口語律をふんだんにとりいれた自在な表現がその詩的昇華を実現している。ここから、服部真里子の歌の世界の扉が開かれていくように思う。
 
  遠雷よ あなたが人を赦すときよく使う文体を覚える    
 
 この歌の「あなた」もおそらく神に近い存在をいうのだろう。神が人を赦すとき世界は祝福に満たされる。命も自然もひかりにみちた輝きを見せる。その瞬間をとらえる集中した感覚と新鮮な言葉。それが「文体」なのだろう。その文体で語られるとき世界は明るく開かれていくように見える。この作者は日常のささやかな場面から言葉を遠くへと飛ばす。神が自分の創造した世界を見下ろすように、現実の世界も、非現実の世界も、そしてどんな細部も透視可能な卓越した視線を獲得している。
 
  トイレットペーパーの上の金属のやさしい歪(ゆが)み 熱帯夜だね  
  フォークランド諸島の長い夕焼けがはるかに投げてよこす伊予柑   
 
  酢水へとさらす蓮根(はすね)のうす切りの穴を朝(あした)の光がとおる
 
 一首目、見巡りのささやかなモノがありありと光をまとって見えている。結句の「熱帯夜」には、主体の生命感が泡立っている。この生命感の出し方にもこの作者の独自の言葉の選択があり、鮮やかである。二首目、ファオークランド諸島の夕焼けと伊予柑の結びつきにもはっとする驚きがあるが、この作者の価値観ではその二つは等価なものとして認識されている。作品としても結句の「伊予柑」の漢字表記や音の響きによって、情感に流れずに緊密な世界を構成しているように思う。そして三首目のような、こまやかな観察の行き届いた歌も見逃せない。写実を徹底したあとに見えてくるモノの輝きを透明感の或る表現で捉えている。
 
  マフラーの房をほぐして笑ってる酔うとめんどくさいともだちが 
  どこをほっつきあるいているのかあのばかは虹のかたちのあいつの歯形
 
 この歌集をとおして作品の完成度の高さはいうまでもない。どの頁を開いても秀歌としかいいようがない歌ばかりである。文語体も口語体も自在に使いこなし、極端な破調も怖れない大胆さ。しかも定型として破綻をきたさない求心力が働いている。ここに挙げた二首などは、ややもすると散文的な冗漫さで終わってしまうところを、力技で反転させてしまう。一首目、人間関係の微妙な心理が、細やかな仕草を丁寧に描写することで場面によく立ち上がっている。二首目の乱暴な口調には驚いてしまうが、下の句の「虹のかたち」と「歯形」を結びつけることで身体性を帯び、美しく若々しい相聞歌として成立している。小気味よいスピード感が読む者を引きつけてやまない。
 
 このように硬弱にわたる文体や、様々な題材をあざやかに展開する言葉のリズムに魅了されてしまうが、この作者の資質の核としてあるのはやはり精神世界からくる抽象性のように思う。それがしなやかで自由な感性で編み上げた世界にくっきりとした輪郭を与えている。そういう印象を作り上げるのに貢献しているのが、作品のなかにかなりの頻度で登場する漢語のインパクトにもあるように思う。
 
  丈高きカサブランカを選び取るひとつの意志の形象として   
  残照よ 体躯みじかき水鳥はぶん投げられたように飛びゆく  
  鉄塔は天へ向かって細りゆくやがて不可視の舟となるまで    
 
 一首目、「意志の形象」などという言葉を歌の中に入れることはまずない。しかし、この作者はおそれずに連作の最後にこの歌を置き、堂々と青春の言挙げをしている。二首目の形も作者が好んで使う文体だ。初句の漢語が力強く韻律を引き締めている。三首目、作者の天上への志向がそのままかたちを与えられたような作品。「不可視の舟」という喩が超越的なものへのかぎりない希求を表していよう。こういう硬質な言葉から練り上げられた抒情が高い緊張感を担保しているように思う。歌集の世界の明晰で格調高い印象が支えられている。
 
  陶製のソープディッシュに湯は流れもう祈らない数々のこと   
  地表とはさびしいところ擦っても擦ってもおもてだけだ、と
 
 歌集の中には、もちろん希望ばかりでなく、喪われた物への愛惜や、厭世観が影を落としている作品も散見する。そういう陰翳のある歌も含めてこの歌集の豊かな奥行きをつくっている。この作者はまだ走り出したばかりである。これからどんな世界を拓いているのか、期待は大きくなるばかりである。
 
  草原を梳いてやまない風の指あなたが行けと言うなら行こう