眠らない島

短歌とあそぶ

楠誓英 第一歌集 『青昏集』

 楠誓英は第1回現代短歌社受賞した若き歌人である。賞を受賞し、歌集が出るということで、楽しみにしていた。読み始めて重い衝撃が走った。
 
  大地震に崩れた家の天井に十二の吾がまだ住んでゐる      
  亡き兄がそこにゐさうな気配して父の鞄に声かけてみぬ    
 
 来年で阪神淡路大震災から二十年経つ。同じ神戸で震災を体験した者としてこの歌集はほんとうに重い。何年経とうと震災の記憶は消える事は無い。ましてや、十二才という無垢な少年にして家族を失い、その絆を断ち切られたものにとって、その後を生きることがどんな意味を持つことなのかをまざまざと教えられる一冊だった。作者にとってこの二十年間を問い直し、さらに今後を生きる為にはこの歌集を出すしかなかったという思いがする。二首目の「父の鞄」は父の魂そのものだろう。父の中にまだ生き続けているであろう兄を呼ぼうとする哀しみが切ない。
 
 お互ひをののしり合ひしその果てに亡兄(あに)の名を出せば黙す父なり   
 夕闇をいくども分かつ改札機疲れた顔の父が出てくる      
 
 死者の時間はその死から始まる。それが、居住空間で襲われた災害によって不意に起こった場合、生き残ったものは、何故自分ではなかたのか、どうにかできたのではないかというような罪悪感から更に傷つけあってしまう。肉親同士あるいは自分自身との悲劇的な関係を直視し、はぐらかさずに詠う姿勢がこの歌集に深い情念を育んでいる。兄を失うことは、あたりまえのようだが父親にとってはかけがえのない息子を亡くすことでもある。作者の視線は常に父親の姿を追いかけていく。そこには、傷つけあいながらも同じ哀しみを分け合い支え合う肉親同士の根源的な共同性が成立している。
 
  教室に机を失くした椅子一つ光の中に置かれてゐたり   
  プリントの束なだれ落つ一瞬に破滅衝動起こる吾が胸  
 
 兄と弟。本来ならばペアであった存在が壊されてしまう。一首目の歌には、その喪失感が「机と椅子」というペアに託されている。椅子は椅子であって、完結した存在であるはずなのに、この歌では「机を亡くした椅子」として現れる。そこには拭いようもない喪失感がひりひりと光に曝されている。それは内向すれば二首目のような、自己否定の暴力性を呼び込むのだろう。作者の抱える内圧の強さが吹きだしている。
 
  同じ歳で子をなす友の葉書来て底深き箱へしづかに落とす   
 
 歌集中、最も印象的だった歌。人生の輝かしいはずの出発点で「幸福」なイメージを奪われたものにとって、普通に結婚することや家族をもつことに絶望さえ抱いてしまう。「しづかに落と」されるのは希望そのものであろうか。
 
 天窓より光の射せばゆつたりと塵の流るる時の間がある  
 
 歌集を通読しながら、どうしようもない暗さや切迫感を受け取ってしまうのはしかたがないことだ。しかし、歌集の中にさしこまれたいくつかの歌には、恩寵のような明るさを感じた。ここに引いた一首は「古本屋の午後」と題された一連のなかの一首。まさに天窓か射し込む光は再生への祈りのように思える。希望とは絶望の中にあってこそ見えてくるものなのかもしれない。古本屋という文学的な空間のなかで、作者の心は安らいでいる。ある見方では古本屋とは死に満たされた空間なのかもしれない。亡くなった文学者たちの言葉はその静けさによって、生きているものの乾きを癒やしてくれる。作者の心が現実からわずかに離れて自在に遊ぶとき、歌は輝きを放つ。この方向に光を見いだして行けたらとも思う。
 
 水鳥を「ルーン」と呼びて自らの祖(おや)と崇めし部族をおもふ   
 
 大陸より渡り来たりし楷の樹に大河の記憶をたづねてみたり 
 
 最後に、歌集の掉尾にさりげなく置かれた一首を紹介したい。歌集中、幾度となく登場する不吉な「影」はここでは姿を消し、新しい関係性のなかで人への信頼が生まれようとしている。ここでの椅子はもう片割れの椅子ではない。二人を寄り沿わせる心地よい場所である。
 
 君の椅子に身を添はせれば一本の棕櫚の木陰が窓に揺れゐる