眠らない島

短歌とあそぶ

沙羅みなみ 第一歌集『日時計』

沙羅みなみの待望の第一歌集が上梓された。沙羅みなみは結社誌「未来」の中でも傑出した才気を持った歌人として長く注目を浴びてきた。毎月、掲載される歌は首か、三首。そのささやかなたたずまいもこの歌人にふさわしいと思えた。沙羅の歌風の大きな特色は、その平明で柔らかな口語体に託された静謐な世界観にある。また修辞的には、象徴的な詠法を駆使し、歌全体が作者の精神性のメタファーとして機能しているように思える。その言葉の斡旋は実に巧みでありながら、苦心のあとをみせない透明感を保つことに成功しており、卓越した言語感覚を思わせる。
沙羅の歌については、今までも何度か「未来」誌上で論じられてきた。静謐な詩情、純粋な言語観、口語体の柔軟性、等々。それはみんな言い得ていた。しかし、それにしても、そういう現実離れした詩情が生み出される作者の内面の風景はどのようなものなのか、よくは把握できなかった。それが、今回、四二〇首という、歌数を一挙に読むことによって、ある程度作者の全容が見えてきたように感じた。
 
くるしくて雨になる雪かなしくて雪になる雨ゆきそしてあめ   
 
雨が雪に変わり、雪が雨に変わる。そのゆきとあめはどちらでもあり、どちらでもない。存在することの危うさが、この一首の歌になったとき、くるしみもかなしみも、一つの「こころ」の在り様として溶け合っている。この稀有なほど美しい歌には、世界の「境界」を抱え込んだものの必然的な痛みが見えてくる。
 
夜もすがらふたつの国を行き来する 舟で/泳いで/あるいは徒歩で
あたらしい年が来てあと少しだけ近づいてみる/遠のいてみる   
 
中心と辺縁という概念があるが、この作者はおそらく自分の位置を中心から離れた、辺縁にあると感じているように思える。そこは、光と影の、生と死、善と悪、正気と狂気、自己と他者とが微妙に交差する領域なのかもしれない。その領域では、作者はどちらにも属しているし、どちらにも属さないともいえる。そういうふうに存在することはおそらくとても孤独で不安なことであるのだろう。
 
椅子があり光があってその部屋にいてよいのかはわからなかった   
 
見えていることは、見えていないことであり、聞こえていることは、聞こえていない。常に引き裂かれた世界。それが作者のかかえている世界との関係性だとしたら、そこでいかにして安住するのか。それは、存在と非在との間で奇跡的な均衡がもたらされる瞬間しかない。どこにも属さない存在であること、そのあやうい一瞬のバランスにたっているとき、至福に満ちた風景がみえてくる。
 
鎖されているのにそこにある小径あたらしい野へ含まれながら 
 
ここには、すでに引き裂かれた痛みはない。どちらかというと「小径」と「野」は溶け合いながら、ひとつの景を織り出している。作者の心象は親和性のなかに世界と調和しているようだ。その状態が、自己像に投影されるとき、それは影への志向となる。
 
仕立屋はわが影のため一枚の真白き布を裁ちはじめたり  
あざやかな影になりたしたとうれば夏の真昼の日時計ほどの  
 
身体は捨象され、影だけの存在。影とは、おそらく精神性そのもののメタファーなのであろう。「日時計」はまさに光と影によって時を示す。そして光よりも影にこそ「日時計」の意義があるとしたら、その影は「あざやか」な非在として立ち現れる。ここにタイトルの「日時計」に籠められた作者の願いもあるのかもしれない。見えるものよりも、見えないもの。所有するものよりも、失われてゆくものにこそ作者の志向が向くとすれば、その先に見据えられているのは時間そのものであり、時間は限りなく失われていくからこそ無垢性や永遠性を担保するといえよう。
 
引きずって来た何物かが消えるたび心の中に立ちゆく墓標   
さめてゆくあいだがあって穏やかな入り日があってあたたかかった  
 
無垢性を究極にもとめるとすれば、その先には死が見えてくる。一首目、生きている時間そのものが絶え間なく喪う事であり、自らの墓標を立てることであるという。そして、二首目、「さめていくあいだ」とは、現実的には夕暮れの時間であるのだろうが、よく言われるようにそれは「彼は誰れ時」であり境界性が鮮明である。ここではこの世の時間が生から死へ移りゆく生前と死後との境界のように詠まれている。それにしても、なんとも悲しく美しい歌だろう。「穏やかな入り日」を見る眼差しに深い諦念が流れている。
 
ここまで追ってきた「境界の領域」への志向は、作者が精神科医であることも大きく影響しているだろう。が、それよりも、生来、持ち合わせている世界へのおののきのようなものが、冷たい石のようにこの作者のなかにはあると思える。
 
拾ってはならないけれど夕ぐれの石は冷たい光を帯びる  
 
この「石」がこの作者の宿業のように根源的な悲しみを生み出している。しかし、哀しみを背負いながら、「どちらでもいいのだよ」と許すとき、つかのまの光が作者のまわりで優しく戦ぎはじめるのだろう。
 
そうしなくてよかったかはわからない。光は、けれど時おりそよぐ
そのようにしてよかったかはわからない。光は、けれど時おりそよぐ