眠らない島

短歌とあそぶ

角田純 第二歌集 『鴨背ノ沖ノ石』

 
 2005年、会員の知人に勧められ「未来」の購読会員になった。紙面にぎっしり並んでいる歌をランダムに読んでいるうちに、いつしか毎月必ず最初に目を通す歌人が現れた。それが角田純である。名前からして女性だろうと勝手に思い込んでいたが、男性だと後で聞いて驚いた覚えがある。
 
 なぜ角田の歌に惹かれていったのだろうか。描かれているのはほとんどが海や港湾の情景、そこに姿をみせる海鳥。人の姿はほとんど皆無。抑制の利いた文体からは感情がきれいに拭い去られており、読者を撥ね付けているようで面食らった。しかし、その媚びない姿勢には清潔な態度があった。わからないからこそ、詩とは惹きつけられるのだとはよく聞く言葉だ。それにしても、こんなに題材が少ないのに、引き寄せる魅力とは何なのだろう。風景を心情の喩として借用するのではなく、見えている世界の、それはひるがえれば見ている主体の根源にまで降りていこうとする粘り強い思惟の力がこの世界にはある。そんな確信があった。静謐で内省的な歌の世界にそのころ強く憧れていた。そこに角田純の歌の世界と出会ったのだった。今回の第二歌集でもその姿勢は変わらないように思えた。
 
  朝さむき護岸の空をゆく鳶の風の穂先のごときつばさは   
  薄氷(うすらひ)のごときあはさを見せながら島影はもう夕靄のなか
 
 一首目は巻頭歌。角田らしい端正な文体のなかに、澄み切った朝の海辺の空気が流れている。「風の穂先のごとき」という修辞もあまり欲張らないでよく収まっている。二首目、二首目も控え目な喩から始まって、なだらかに言葉が無理なく繋がっている。こちらは、瀬戸内の夕靄にけぶる島影の懐かしいような風景。この歌集全体についていえることだが、こうした海浜の風景を詠んだときに際立っているのは韻律の美しさである。即物的ともいえそうなほど、生な感情をみせない歌いぶりであるが、かえってみずみずしい抒情が薫ってくる。それは滞りの無い丁寧な措辞から生まれているのだろう。前歌集に比べて、一首、一首の歌が読みやすい印象をもつ。修辞が平明になり、緩急をとりこんで流れるような韻律が完成している。
 
  赤煉瓦倉庫傍(わき)には寂びれたる荷揚げ場ありて旧東洋紡績跡地  
  黒崎といふきりぎしの翳ふかく海に差し出すさぶしき胸を   
 
 角田は好んで、廃墟のような構築物を歌に取り入れてゆく。一首目は、工場の跡地。時間は目では捉えることはできない。しかし廃墟となった建物は、過ぎ去り、失われてしまった時間そのものとして存在する。角田は、どうしようもなく喪失された時間を、人工物をとおして言葉に凝縮しようと試みているかのようだ。人のいとなみのはかなさと言ってしまえば平凡であるが、角田の思考の先にはそんな視線が見え隠れしている。
二首目、「黒崎」という岬を印象深く詠みこんでいる。この歌集には、歌集の題名に象徴されるように多くの海浜の地名が登場する。おそらく、地名を詠むことは、作者自身の出自を大切にする心情でもあるのだろう。作者は後書きで「原風景」という言葉を使っている。作者が生まれ、暮らし、日常の時間を過ごしている土地。それは風景というように外在的なものではなく、そこに暮らす人の精神そのものの背景でもある。人と土地との根源的な繋がりがあり、風景を詠む歌にこそもっとも本質的な感情がながれているといえるのかもしれない。
 
  ニンゲンノヰナクナリニシ世ヲモフ氷雨に透キテ光ル草ノ穂   
  アメツチノ終リノトキノ草木(そうもく)ノ萎エタルサマモ記シオクベシ
 
角 田の歌は端正にすぎるように見えることも否めない。見ているものと、主体とに距離感を与えている。それは、ここに挙げたような意図によって編み直された世界からだとはいえないか。一首目、人間が滅んでしまった後の世界から逆に見た現在の風景。それは「氷雨に透きて光」るように薄い膜がかかっている。また、二首目、すべてが終わった後の世界を想定して歌は書かれようとしている。「草木の萎えたるさまも記」そうとして詠まれるとき、この世の風景はいかばかり、はかなく静かなことであろう。たしかにすべては死に向かって歩んでいることは真実なのだから。
 
   やはらかき日射しを流し広ごれる至福のやうな海面(みなも)があつた
 潮流といふ流速のエロスかな さわだつ海のみなそこの闇    
  えいゑんといふ苦しみと至福はありて波に揺蕩(たゆた)ふびにーる芥 
 
 滅びへの断念を見定めたものには、その先に恩寵のように今この瞬間が輝きをみせる。歌集の掉尾には、至福感にみちた歌が並ぶ。一首目はそれを、手放しで詠んでいる。二首めも海流の生命感を攫みとって力強い。そして、三首目は生も死も超えてしまった世界に「びにーる芥」がかなしく漂っている。
 
 角田の歌集は決して読みやすいとはいえない。しかし、日常の些事を並べた歌集とは違う深く豊かな詩の世界が広がっている。すぐに伝わるものだけがよいわけがない。
 
   冬空のなだりの下をうみ鳥はつめたき風のすさびを遊ぶ