眠らない島

短歌とあそぶ

晋樹隆彦第四歌集「浸蝕」

 
晋樹隆彦第四歌集「浸蝕」を読んだ。読み終わって、気持ちの良い充足感を味わった。歌の世界が豊かなのである。冒頭は、作者の故郷である九十九里浜への旅から始まる。変化し、破壊される自然を嘆きつつ、しかし重くならない。地形への強い関心が歌に海風を吹き込むように、生命感を形成している。歌集中、たくさんの地名が詠われる。地名とは、そこに生きてきた人の暮らし、歴史そのものである。地名を詠うことで歌集の中に、奥ゆきのある時空間が生まれ、萎縮していた感性が太古の風にひらかれていくようだ。
 
  佐原を過ぎ香取を過ぎて吹く風は大利根川の秋のはこびや    
  
  犬吠埼へ行ってみようか君ヶ浜を散歩しようか菜の花咲けば   
  
  駅名のすがしき小田急線なるぞ開成(かいせい)栢山(かやま)富水(とみ  ず)蛍田(ほたるだ)       
 
1首目は、作者の故郷、下の句の収め方に余裕があり、文語の韻律を存分に駆使できる手腕にも羨望を感じる。また2首目は、口語体で体を投げ出すように詠っている。深呼吸するような息遣いで口語文体が自然に使われている。文語も口語も心地よく溶け合って作者の体の中で熟成している感がある。三首目は現在の自宅付近の駅名であろうか。美しい駅名からは土地へのさまざまなイメージが湧いて来る。特に「蛍田」は美しい。これら、地名を豊富に歌い込まれた歌には、古代の「国誉め」の歌の響きが感じられる。大王が、自分の国を褒め称えるように、晋樹は日本各地を旅し、その土地のものを貪欲に食べ、そして飲み、大いに遊ぶ。特に豊富な食べ物を詠んだ歌には祝祭のようなエネルギーが放出している。おしみなき浪費をさせているのは、根源的な悲しみなのかもしれない。
 
 晋樹隆彦のなかには、プリミティブな憧れてやまない魂が宿っているようだ。現実世界からはみ出してしまうその浪漫性は、晋樹隆彦を遠くへ誘い出す。文学もまた、作者にとっては見果てぬ夢のように遙かな地平に青々と広がっているのだろう。
 
  わが愛する詩人のひとり透谷の浪漫精神にわかき日溺る  
 
純粋な精神に生きようとした透谷が破滅していったように、晋樹の無垢な魂は「文明」に曝されることで、侵され、そして痛みを背負う運命にある。そこにタイトルを「浸蝕」とすることへの必然性がある。「浸蝕」されるものは、故郷の砂浜の風景からはじまり、文化を包摂し作者自身の身体性にまで食い込んでくる。
 
 夢を持ち海を見ていし少年が浸蝕の浜に今はたじろぐ  
 
ふるさとの砂丘が今や浸蝕に消えゆくころぞ活版印刷も   
 
吸い殻やゴミの見当たらぬ千代田区の路上をあるくときの虚無感   
 
四十四年かかわりてこし編集に如何ともしがたき視力の衰え
 
1首目、故郷の浜が無残にえぐられている風景が自己像に投影されている。2首目、編集者として印刷界から消えて行く活版印刷を心から愛惜してやまない。そして3首目は、無機質に変わっていく都市風景への違和感を表出する。4首目、「老い」は、まさしく身体への浸蝕である。衰えていく視力が切ない。
生きてゆくことは限りなく失うことでもある。喪われていくものは美しく、滅ぶものはせつない。消えて行くのは風景やものだけではない。作者の敬愛する文学者たちも次々と世を去って行く。歌集には多くの著名人への挽歌が納められている。移りゆくこの世で歌うことは、どれほどのことでもない。風に舞う花びらのように儚い営為であることをよく承知している作者でもある。
    
歌うとは歌とはなにか逝きたりし歌びとの背を思えばはかな  
 
多くの挽歌は、作者と故人との豊かでかけがえのない交流の証しでもある。多くの人物と共有された長い歳月が歌集に流れている。その起伏のある時間のなかで獲得されたゆるい文体が、独特のぬくもりのある世界を作り上げている。細部に拘泥しないおおらかな視線のとらえた風景は茫洋としていて、さかしらぶった知で処理をしない。成熟ということを思う。そして短歌の良さとはそういうところにあるのかと思わされる歌集である。
  
 巡りあう神社と寺の多き地やあすあさっても明日香は明日香